2010年度 109冊目
『イスラームとコーラン』
牧野信也 著
講談社学術文庫
昭和62年10月10日
206ページ 本体 580円 + 税5%
三日をかけて『イスラームとコーラン』を読了。
最近また読書スランプに陥り、前回の『「分かち合い」の経済学』から考え十日ばかり読書記録が途絶えている。
傾向としては◯◯あるべしと読書も課題かするとスランプの日だにはまり込むことが判明。気楽に手当たり次第読むのが、私のライフスタイルに合うらしい。
ところで今回の『イスラームとコーラン』は日本人のわたしには理解しがたい部分が多い。
著者牧野信也さんは井筒俊彦さんの影響を受けておられるという。
井筒俊彦さんでは昨年十二月に観たアーシューラーやタアズィエの意味を知りたくて『意味の深みへ 東洋哲学の水位』から五 シーア派イスラーム ーーーーシーア的殉教教者意識の由来とその演劇性ーーーーを読んだが、これがまたわたしにはむずかしい。
イスラムは難解だ。
なんだか見失ったままに読み進んだ感がン迂愚得ないが、それでも興味深い部分が数カ所。
簡単に記録しておこう。
もし仮にイエスを神の詞と見なすならば・・・・・・。
・・・・・・。
「わが子よ、アッラー以外のものを認める偶像崇拝に他ならない」(31章12節)
(90)
〈遺跡などの顔が徹底的に破壊されている姿を思い出す〉
世の初めに世界を創造したアッラー・・・・・・。
全能の神アッラーは第二の創造、或は創造の反復として、この世界の終末を引き起こす・・・。
(112)
〈???。イスラム教はわたしにはわかりづらい。〉
コーランの感謝とは、・・・
自分にとって何か良いことが起こったからありがたいと思う、というものではない。
16章13-14節で説明
(142)
〈日本人の宗教観、感謝の心とはかけ離れたものである。〉
イスラーム共同体の独特な性格
イスラーム教徒のみによって成り立っている単一的講生体ではなく、イスラーム以外の他の宗教の信者をもそのままの状態で包み込む複合体集団。
宗教制限はある
ユダヤ教、キリスト教、ゾロアスター教 等
(198)
〈そうだったんだ。イランで見る限り、キリスト教やゾロアスター教 の住んでいる地区は集落をなしていた。上で記録した「わが子よ、アッラー以外のものを認める偶像崇拝に他ならない」(31章12節)と相矛盾を感じるのは、私の理解不足か・・・。イスラムの考え方もイスラム教もコーランも わたしには難しい。〉
敏馬神社(みぬめじんじゃ) 2
『祓いの日』とは
一年を二つに分けた昔の考え方。
六月晦日は十二月晦日に対応、前の半年の最終日。
神に年前半の無事を感謝し、収穫までの後半年の無事を祈るため → 物忌みの日、祓いの日
宮廷で 十二月晦日と六月晦日の年二回、「大祓い」の神事が行われていた。
祓いは、日本の神祭りの基本とも言える作法。
大祓いの本来の意義は、年間を通じて最も大切な正月と七月の祖霊迎えの行事を前に、物忌みを行うこと。
十二月 「年越し」
六月 「名越し」
大祓いの行事は宮中から民間の神社でも行われるようになる。
名越し 「夏越し」
「六月祓い」「荒和(あらにご)の祓い」「夏越節供」「輪越祭り」
と呼ぶこともある。
ナゴ(名称)は、神様の気持ちを和らげるという意味の「和し」による。
万葉の時代、敏馬の浦は「百船の過ぎて往く」と云われるような賑わった港であった。
伝承
婚礼の列が社前を通るとその結婚は不縁に終わるとの伝えがある。どうしても通らねばならない場合には神社裏の国道を通ったとのこと。
元々女神を祭る神社だから神が嫉妬するとのようだ。 これでは到底神前結婚式はできないだろう。
また縁切りのまじないもあり、拝んでもらった砂を相手の食事に少量まぜて食べさせると直ちに効くという。 砂を食べさされたら、別れる気にはなるだろうが、砂を噛む思いの伝承ではある。
神戸市灘区岩屋中町4-1-8