今は当直中。暇です。
PCにむかって文字を打っていると、周りからはまるで仕事しているように見えます。
10月17日に、大野一雄フェスティバル2009というところで、プロジェクト大山が踊る『「動乱に生きた人々」 ~モダンダンスのリコンストラクション 』を見てきた。
とても素晴らしかった!!
理屈抜きに、まずその一言に尽きる。
(【注】プロジェクト大山の踊りに関しては、
○踊りの原点(2009-06-08)
○横浜ダンスコレクション(2009-02-06)
○よい踊りを見た。そして、感じ、思ったこと。(2008-11-24)
と観る度に感想を書いている。
観る度に熱を受け、思わず書かざるを得ない気持ちになるのです。
プロジェクト大山の世界観は、本当にすごいよ。)
素晴らしいとは、「もののあはれ」の感覚に近い。
「あはれ」とは、「ああ」「はれ」という感嘆詞であり、言葉にならないメロディーの段階である。「言葉」で感情を区分けする前の、原始的な感情を表現するようなものか。
最近、「もののあはれ」の感覚がストンと分かってしまい、よく使っている。笑
==========================================
もののあはれを知るといひ、知らぬといふけぢめは、たとへばめでたき花を見、さやかなる月にむかひて、あはれと情(こころ)の感(うご)く、則ち是もののあはれを知るなり。
・・・すべて世の中にありとある事にふれて、そのおもむき心ばへをわきまへしりて、うれしかるべき事はうれしく、おかしかるべき事はおかしく、かなしかるべき事はかなしく、こひしかるべき事はこひしく、それぞれに情の感くがもののあはれを知る也。
==========================================
本居宣長『石上私淑言(いそのかみさざめごと)』より
==========================================
「もののあはれ」のような、言葉になりにくい感嘆の感情の動きを、なんとか言葉で説明してみたいというのが、今回の試みであります。
・・・・・・・・
横浜にあるBankART Studio NYKというかっこいい場所で開催された。
無機質な感じの建物に白いペンキが映えている場所で、空間自体から開かれ開放的な雰囲気を予感した。
■観る・観られるの解体から
踊りは、だだっ広い大きな会場に入ることから始まった。
入場した時点で、既に踊り手たちが踊っている。
踊りというより、うごめいている。
動いているからだが、そこに「在る」感覚に近い。
それは「踊り」という名前にならない原始的な段階のようにも見えた。
「言葉」として意識上に上がる前の感情に近いものを感じた。
その広く大きな会場は、更に奥と手前で二つの部屋に分かれていた。
そして、観客は二部屋ある広い会場のどこに座ってもよい。
この段階で、既に「観る、観られる」の固定化した構造が解体されたような気がして、わくわく、ドキドキとさせる。何か予感に満ちた始まりであった。
どちらの部屋に入るか、そのことで見える踊りは変わる。
当然のことながら、絶対にどちらかの世界しか体感できなくて、その選択は完全に自分に委ねられている。
「表現」が、誰が見ても同じものを受け取るものになっていることがある。
それは、表現ではなく単なる「情報」に過ぎない。
「情報」は、インターネット回線上でゼロとイチの2進法に還元され、果てしなく無機質な商品として流通の流れに乗るものを指す。
今回のような枠組みでの踊りの「表現」は、踊り自体があくまでも一回性の体験であり、情報や商品の文脈の上に乗せられない踊りという表現性を強烈に感じた。
これこそが、まさしく観客と踊り手との一期一会の場の踊りである。
「一期一会」は、頭では大事なことを理解できているような気になっていても、実践できなかったり、形にできないことが多い概念である。
■二つから一つを選んでいくこと
二つの部屋で、僕は奥の部屋を選択した。
そこには二つのスクリーンがある。
一つ目のスクリーンには、もう一つの部屋でのライブ映像が映し出される。踊り手が別の部屋で踊っているときは、あえてスクリーンで見る仕掛けになっている。
二つ目のスクリーンには、教育番組のような過去の現代舞踊家たちのドキュメント映像が、感情が入っていない淡々としたナレーションと共に流れている。
そんな二つの大きいスクリーンの前の舞台で、プロジェクト大山の5人の踊り手が踊る。
踊り手は、時には別の部屋に移動していく。
ただ、誰か1人くらいはどちらかの部屋で踊っていたりして、同時多発的に色々な踊りをしている。どの踊り手を見るかは一人一人の選択に委ねられている。
全ては同時並行的に、同時並列的に起こり、その部分と全体を映像で補いながら、時には映像と目の前の踊りが重なりながら、踊りは進んでいく。
■リアルとは
部屋で踊りを見ているとき、不思議な感覚がしてくる。
2つのスクリーンと目の前でリアルに踊っているひとたちの3層。
2つの映像を介したバーチャルな踊りと、1つの目の前にいるリアルな踊りが層構造で重なってくる。
映像やスクリーンで見る映像は、自分の脳での現象に過ぎない。
映像を撮っているカメラのレンズ自体で僕らが見る枠は既に切り取られていて、その枠内の世界でしか見ることができない。
その映像を脳で情報として受け取り、自分の脳の中で再構成して踊りを堪能している。
基本的に、時間として過去のもの、空間として別の場所、そういう現象は、映像というバーチャルな情報としてしか受け取ることができないのが人間の脳の限界である。
時間的に過去の映像と、時間的には同じだけど空間的に別にいる人の映像、その二つの映像と共に、「ひとつのからだ」を使って汗や吐息や熱を出しながら踊る踊り手のリアルが、3層構造の上で重なる。
目の前で踊るそのリアルで圧倒的な存在感が、観るものに迫ってくる。
■古典と現代
過去の映像とは、現代舞踊の先人の踊りだが、それは学問世界で言えば古典の世界と同じである。
僕らは、古典作品をどう現代とつなげていいのか分かりかねている。
万葉集、平家物語、徒然草、源氏物語・・・どれもすばらしい一級の作品である。
ただ、その古典の世界が古典の海として閉じるのではなく、光文社古典新訳文庫の「いま、息をしている言葉で」というキャッチコピーのように、古典と現代が連続的につながるのではないかとも思う。
古典は、古い空気のまま現代につなげてしまうと、息ができなくて死んでしまうような気がする。
換気をして空気を入れ替えながら、現代の息吹を与えながら、受け継がないといけない。
そんな古典と現代とのつながりを最近考えていたのだけど、
プロジェクト大山の振り付け家である古家さんは、
それを大上段に構えず、自然な形でやっている。
先人たちへの敬意や愛情のような情緒はベースにあって、そこに現代風の感覚を重ねた上で気負い無く自然な形で受け継ごうとしている姿勢を強く感じてしまった。
そんな感じで1時間近くあった踊りはあっという間に過ぎ去った。
踊りの後、プロジェクト大山のトークイベントがあり、それもとてもよかった。
■「言葉にならないもの」を言葉に
芸術家がインタビューを受けたとき、「言葉にならないものを表現しているので言葉にできないです」と言って話が進まないことがある。それは、好きではない。
「言葉にならない」とは見る側が言う台詞であって、表現者が言うべきではない台詞だと思う。
もちろん、「言葉にならない」領域を踊りで表現しているのは大前提である。
だからと言って、語ることを放棄した瞬間、そこに高い壁ができる。
その壁は断絶に近く、共感やあわいの領域を否定する高い壁である。
踊り手の5人は、「言葉にならない」思いを、悪戦苦闘しながらなんとか「言葉」に変換しようとしていて、その姿勢だけで十分何かが伝わってきた。
それは「好感」とも呼ぶべきもので、それぞれの踊り手の人柄がにじみ出ていると感じた。
つまり、「言葉にならない」思いを求められたとき、
そのまま「伝わる」ことよりも、「伝えようとする姿勢」が求められているのである。
そこを拒否した瞬間、その人の芸術は一切から遮断され、閉じられる。
それを、一般的には自己満足の表現と呼ぶ。
例を挙げる。外国に行くと、言葉が違う。
何かを伝えるとき、正確に伝わるわけがない。
自分も、日本語以外はしゃべれない(日本語ですら奥が深すぎて、十分に理解できていないけれど)。
言葉も知らないのだから「言葉にならない」のは当たり前である。
海外に行くと、「言葉にならない」のがいかに当たり前かを痛感する。
ただ、そこで求められているのは、同じことが「伝わる」ことよりも、「伝えようとする姿勢」が求められているのだから、言葉にならなくてもよいのである。
その姿勢を、お互いが非言語的な領域で共有したとき、はじめてお互いが交叉する地点、つまりはあわいの領域ができるのである。
踊り手の人たちは、みんな自分の頭で考えて、自分の言葉で話していた。
「振り付けの古家さんに言われたんで、よく分からないけどとにかく踊りました」とかではない。
踊り手それぞれが、思い、感じ、考え、悩み、そして踊っている。
その全てに、僕は心を打たれた。
そして、そんな開かれた場としてのプロジェクト大山を主催している古家さん、彼女自体がとても開かれた人だと思った。
自意識を消して、他者中心で世界を見ている人だと思った。彼女の真ん中には、一度組み立てた「我」を解体した、全てを取り込む「無我」があるように見える。
■行雲流水
プロジェクト大山のメンバー編成は流動的である。
三輪さんのような中心メンバーもいるけれど、特に固定しておらず水の流れのように変化し流動している。
プロジェクト大山という場は踊り手の女性に開かれていて、その時その時でスケジュールが空く人が、偶然と必然の兼ね合いで参加する。
古家さんは、その人その人に合わせて、その人の動きの癖や特徴を掴んで、その出会いを中心に、自由に踊りを着想して組み立てていっている。
振付家が
「こういう構成で、こういうものを表現したいのでみんながそれに従わないといけない。それに合う踊り手を探す。その踊り手が期待に応えることができなければ、自分のイメージに都合が合うように練習させて、自分の思うように持っていく。」
という発想とは、プロジェクト大山の古家さんは正反対であると思った。
ちなみに、大山と逆である自意識過剰な芸術表現は、巷に溢れている。
それは、理性中心の、都市型人間の発想である。
人工社会ではある程度まではうまくいくが、その発想では有限性の壁にぶち当たる。
何らかの偶然と必然が交差した一点から、物事が始まったように見える。
そのように僕らは世界を切り取って見ている。
そこを、便宜上「はじまり」と名づけるに過ぎない。
プロジェクト大山の踊りの「はじまり」とは、今回の踊り手が、なんとなく集ったことである。
その一点は、ほとんど奇跡である。
そんな偶然と必然が交叉した領域を「はじまり」にして、踊り手との関係性の中で、その関係性をその都度に更新しながら、部分と全体の関係性が創造・破壊されながら、おのずから全体像ができあがってくる。
大きな地図は最初から存在していてそれを参照したわけではなく、結果として大きな地図のような全体像ができてしまっただけである。
その結果としての大きい地図を、僕らは踊りとして見ている。
全体には始まりもないし終わりもない。
だから完成もない。常に途中であって、永遠にプロセスであり、永遠に「続く」のである。
プロジェクト大山のやり方は、現代での組織論、自己と他者論、色んなものに応用できると直感的に感じた。
世間的なやり方とは180度やり方が違う。
そして、そこにこそ未来性がある。
■渦、渦の目
古家さん自体は渦の中心の目の存在である。渦の中心には何もないけれど、渦の周りの水が動いていることで、相対的に渦の目と言われる中心があるように見える。
その開かれた渦の目に、周囲は巻き込まれていく。
プロジェクト大山は、大きな渦であり、そんな流動的な場である。
僕ら観客も、そして踊り手も、その大きな渦に巻き込まれていき、「渦」と言われる一つの大きな何かへと、まとまっていく。
その場では、各々が無理せず、背伸びせず、観るも観られるもなく渦に身を委ねればいい。
そこが、プロジェクト大山の大きな魅力となっているのだと思う。
PCにむかって文字を打っていると、周りからはまるで仕事しているように見えます。
10月17日に、大野一雄フェスティバル2009というところで、プロジェクト大山が踊る『「動乱に生きた人々」 ~モダンダンスのリコンストラクション 』を見てきた。
とても素晴らしかった!!
理屈抜きに、まずその一言に尽きる。
(【注】プロジェクト大山の踊りに関しては、
○踊りの原点(2009-06-08)
○横浜ダンスコレクション(2009-02-06)
○よい踊りを見た。そして、感じ、思ったこと。(2008-11-24)
と観る度に感想を書いている。
観る度に熱を受け、思わず書かざるを得ない気持ちになるのです。
プロジェクト大山の世界観は、本当にすごいよ。)
素晴らしいとは、「もののあはれ」の感覚に近い。
「あはれ」とは、「ああ」「はれ」という感嘆詞であり、言葉にならないメロディーの段階である。「言葉」で感情を区分けする前の、原始的な感情を表現するようなものか。
最近、「もののあはれ」の感覚がストンと分かってしまい、よく使っている。笑
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もののあはれを知るといひ、知らぬといふけぢめは、たとへばめでたき花を見、さやかなる月にむかひて、あはれと情(こころ)の感(うご)く、則ち是もののあはれを知るなり。
・・・すべて世の中にありとある事にふれて、そのおもむき心ばへをわきまへしりて、うれしかるべき事はうれしく、おかしかるべき事はおかしく、かなしかるべき事はかなしく、こひしかるべき事はこひしく、それぞれに情の感くがもののあはれを知る也。
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本居宣長『石上私淑言(いそのかみさざめごと)』より
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「もののあはれ」のような、言葉になりにくい感嘆の感情の動きを、なんとか言葉で説明してみたいというのが、今回の試みであります。
・・・・・・・・
横浜にあるBankART Studio NYKというかっこいい場所で開催された。
無機質な感じの建物に白いペンキが映えている場所で、空間自体から開かれ開放的な雰囲気を予感した。
■観る・観られるの解体から
踊りは、だだっ広い大きな会場に入ることから始まった。
入場した時点で、既に踊り手たちが踊っている。
踊りというより、うごめいている。
動いているからだが、そこに「在る」感覚に近い。
それは「踊り」という名前にならない原始的な段階のようにも見えた。
「言葉」として意識上に上がる前の感情に近いものを感じた。
その広く大きな会場は、更に奥と手前で二つの部屋に分かれていた。
そして、観客は二部屋ある広い会場のどこに座ってもよい。
この段階で、既に「観る、観られる」の固定化した構造が解体されたような気がして、わくわく、ドキドキとさせる。何か予感に満ちた始まりであった。
どちらの部屋に入るか、そのことで見える踊りは変わる。
当然のことながら、絶対にどちらかの世界しか体感できなくて、その選択は完全に自分に委ねられている。
「表現」が、誰が見ても同じものを受け取るものになっていることがある。
それは、表現ではなく単なる「情報」に過ぎない。
「情報」は、インターネット回線上でゼロとイチの2進法に還元され、果てしなく無機質な商品として流通の流れに乗るものを指す。
今回のような枠組みでの踊りの「表現」は、踊り自体があくまでも一回性の体験であり、情報や商品の文脈の上に乗せられない踊りという表現性を強烈に感じた。
これこそが、まさしく観客と踊り手との一期一会の場の踊りである。
「一期一会」は、頭では大事なことを理解できているような気になっていても、実践できなかったり、形にできないことが多い概念である。
■二つから一つを選んでいくこと
二つの部屋で、僕は奥の部屋を選択した。
そこには二つのスクリーンがある。
一つ目のスクリーンには、もう一つの部屋でのライブ映像が映し出される。踊り手が別の部屋で踊っているときは、あえてスクリーンで見る仕掛けになっている。
二つ目のスクリーンには、教育番組のような過去の現代舞踊家たちのドキュメント映像が、感情が入っていない淡々としたナレーションと共に流れている。
そんな二つの大きいスクリーンの前の舞台で、プロジェクト大山の5人の踊り手が踊る。
踊り手は、時には別の部屋に移動していく。
ただ、誰か1人くらいはどちらかの部屋で踊っていたりして、同時多発的に色々な踊りをしている。どの踊り手を見るかは一人一人の選択に委ねられている。
全ては同時並行的に、同時並列的に起こり、その部分と全体を映像で補いながら、時には映像と目の前の踊りが重なりながら、踊りは進んでいく。
■リアルとは
部屋で踊りを見ているとき、不思議な感覚がしてくる。
2つのスクリーンと目の前でリアルに踊っているひとたちの3層。
2つの映像を介したバーチャルな踊りと、1つの目の前にいるリアルな踊りが層構造で重なってくる。
映像やスクリーンで見る映像は、自分の脳での現象に過ぎない。
映像を撮っているカメラのレンズ自体で僕らが見る枠は既に切り取られていて、その枠内の世界でしか見ることができない。
その映像を脳で情報として受け取り、自分の脳の中で再構成して踊りを堪能している。
基本的に、時間として過去のもの、空間として別の場所、そういう現象は、映像というバーチャルな情報としてしか受け取ることができないのが人間の脳の限界である。
時間的に過去の映像と、時間的には同じだけど空間的に別にいる人の映像、その二つの映像と共に、「ひとつのからだ」を使って汗や吐息や熱を出しながら踊る踊り手のリアルが、3層構造の上で重なる。
目の前で踊るそのリアルで圧倒的な存在感が、観るものに迫ってくる。
■古典と現代
過去の映像とは、現代舞踊の先人の踊りだが、それは学問世界で言えば古典の世界と同じである。
僕らは、古典作品をどう現代とつなげていいのか分かりかねている。
万葉集、平家物語、徒然草、源氏物語・・・どれもすばらしい一級の作品である。
ただ、その古典の世界が古典の海として閉じるのではなく、光文社古典新訳文庫の「いま、息をしている言葉で」というキャッチコピーのように、古典と現代が連続的につながるのではないかとも思う。
古典は、古い空気のまま現代につなげてしまうと、息ができなくて死んでしまうような気がする。
換気をして空気を入れ替えながら、現代の息吹を与えながら、受け継がないといけない。
そんな古典と現代とのつながりを最近考えていたのだけど、
プロジェクト大山の振り付け家である古家さんは、
それを大上段に構えず、自然な形でやっている。
先人たちへの敬意や愛情のような情緒はベースにあって、そこに現代風の感覚を重ねた上で気負い無く自然な形で受け継ごうとしている姿勢を強く感じてしまった。
そんな感じで1時間近くあった踊りはあっという間に過ぎ去った。
踊りの後、プロジェクト大山のトークイベントがあり、それもとてもよかった。
■「言葉にならないもの」を言葉に
芸術家がインタビューを受けたとき、「言葉にならないものを表現しているので言葉にできないです」と言って話が進まないことがある。それは、好きではない。
「言葉にならない」とは見る側が言う台詞であって、表現者が言うべきではない台詞だと思う。
もちろん、「言葉にならない」領域を踊りで表現しているのは大前提である。
だからと言って、語ることを放棄した瞬間、そこに高い壁ができる。
その壁は断絶に近く、共感やあわいの領域を否定する高い壁である。
踊り手の5人は、「言葉にならない」思いを、悪戦苦闘しながらなんとか「言葉」に変換しようとしていて、その姿勢だけで十分何かが伝わってきた。
それは「好感」とも呼ぶべきもので、それぞれの踊り手の人柄がにじみ出ていると感じた。
つまり、「言葉にならない」思いを求められたとき、
そのまま「伝わる」ことよりも、「伝えようとする姿勢」が求められているのである。
そこを拒否した瞬間、その人の芸術は一切から遮断され、閉じられる。
それを、一般的には自己満足の表現と呼ぶ。
例を挙げる。外国に行くと、言葉が違う。
何かを伝えるとき、正確に伝わるわけがない。
自分も、日本語以外はしゃべれない(日本語ですら奥が深すぎて、十分に理解できていないけれど)。
言葉も知らないのだから「言葉にならない」のは当たり前である。
海外に行くと、「言葉にならない」のがいかに当たり前かを痛感する。
ただ、そこで求められているのは、同じことが「伝わる」ことよりも、「伝えようとする姿勢」が求められているのだから、言葉にならなくてもよいのである。
その姿勢を、お互いが非言語的な領域で共有したとき、はじめてお互いが交叉する地点、つまりはあわいの領域ができるのである。
踊り手の人たちは、みんな自分の頭で考えて、自分の言葉で話していた。
「振り付けの古家さんに言われたんで、よく分からないけどとにかく踊りました」とかではない。
踊り手それぞれが、思い、感じ、考え、悩み、そして踊っている。
その全てに、僕は心を打たれた。
そして、そんな開かれた場としてのプロジェクト大山を主催している古家さん、彼女自体がとても開かれた人だと思った。
自意識を消して、他者中心で世界を見ている人だと思った。彼女の真ん中には、一度組み立てた「我」を解体した、全てを取り込む「無我」があるように見える。
■行雲流水
プロジェクト大山のメンバー編成は流動的である。
三輪さんのような中心メンバーもいるけれど、特に固定しておらず水の流れのように変化し流動している。
プロジェクト大山という場は踊り手の女性に開かれていて、その時その時でスケジュールが空く人が、偶然と必然の兼ね合いで参加する。
古家さんは、その人その人に合わせて、その人の動きの癖や特徴を掴んで、その出会いを中心に、自由に踊りを着想して組み立てていっている。
振付家が
「こういう構成で、こういうものを表現したいのでみんながそれに従わないといけない。それに合う踊り手を探す。その踊り手が期待に応えることができなければ、自分のイメージに都合が合うように練習させて、自分の思うように持っていく。」
という発想とは、プロジェクト大山の古家さんは正反対であると思った。
ちなみに、大山と逆である自意識過剰な芸術表現は、巷に溢れている。
それは、理性中心の、都市型人間の発想である。
人工社会ではある程度まではうまくいくが、その発想では有限性の壁にぶち当たる。
何らかの偶然と必然が交差した一点から、物事が始まったように見える。
そのように僕らは世界を切り取って見ている。
そこを、便宜上「はじまり」と名づけるに過ぎない。
プロジェクト大山の踊りの「はじまり」とは、今回の踊り手が、なんとなく集ったことである。
その一点は、ほとんど奇跡である。
そんな偶然と必然が交叉した領域を「はじまり」にして、踊り手との関係性の中で、その関係性をその都度に更新しながら、部分と全体の関係性が創造・破壊されながら、おのずから全体像ができあがってくる。
大きな地図は最初から存在していてそれを参照したわけではなく、結果として大きな地図のような全体像ができてしまっただけである。
その結果としての大きい地図を、僕らは踊りとして見ている。
全体には始まりもないし終わりもない。
だから完成もない。常に途中であって、永遠にプロセスであり、永遠に「続く」のである。
プロジェクト大山のやり方は、現代での組織論、自己と他者論、色んなものに応用できると直感的に感じた。
世間的なやり方とは180度やり方が違う。
そして、そこにこそ未来性がある。
■渦、渦の目
古家さん自体は渦の中心の目の存在である。渦の中心には何もないけれど、渦の周りの水が動いていることで、相対的に渦の目と言われる中心があるように見える。
その開かれた渦の目に、周囲は巻き込まれていく。
プロジェクト大山は、大きな渦であり、そんな流動的な場である。
僕ら観客も、そして踊り手も、その大きな渦に巻き込まれていき、「渦」と言われる一つの大きな何かへと、まとまっていく。
その場では、各々が無理せず、背伸びせず、観るも観られるもなく渦に身を委ねればいい。
そこが、プロジェクト大山の大きな魅力となっているのだと思う。
今回は、あなたのいつも言うところの
「解体して再構築」
ということを、私もまさにそうだなと痛感しました。
どうにも言葉にしづらいのですが、こういう時こそ感じたことをフレッシュなうちに何らかの形で表現することが大事なんだなというように、最近思うようになりました。
まさに古家さんは、一人の女性でありつつも非常に高いプロ意識を持っていると感じました。私もやはり、プロ、という言葉の含みには閉じられた部分を勝手に想像しており、まあ、その閉じられた部分があるからこそ表現できるものが、誰にも真似できないようなものがあるのだと思っていました。でも、古家さんは限りなくプロだけど、私のイメージしていた、プロ、とはかなり違って、いつもいつでも、ぱあっと開かれている。
その踊りを通した彼女の表現に親しみや懐かしさを覚えたり、単純に「観客」対「踊り手」、という構造にならないのは、古家さん自身が観客と踊り手のあわいを無意識のうちにとらえているがためなのでしょうね。
同じ女性として、本当に感銘を受けます。
「ああ、はれ」ですな。
ここ数回のは見逃してるだけに、
発展ぶりを見てみたいです。
…感想を読んでいて、ふと思ったのが、
なんかで小説家の保坂和志が、野球場での野球観戦についてだらだらの述べているのがあって、あの場では、真剣に野球の観戦してる人はむしろ少数で、世間話してるひともいるし、カップルのデートコースなだけだったり、球場来てるのに画面ばっかり見てるのもいるしで、…でも、そうして成り立っているのが野球場なのだみたいな話で、なんとなくだけど近いものがあるのかなと思いました。と、同時に、保坂さんとか、あと他にも吉本隆明さんとか、「場」みたいなものに意識的な人たちに見てもらいたい気もしますね。
「解体して再構築」。まさにそうでしたよねー。
随所に、そんな要素があった。
解体するだけだと、バラバラで、見れる表現して成立しないんだけど、そこで古家さんが再構築しているんだよね。
向こうに行っちゃうだけじゃなくて、こっちに戻ってくる。
抽象世界に行ったままではなくて、具体の世界に戻ってくる。
そういう感覚は、今回の風の旅人のテーマが「彼岸と此岸」であったことと呼応します。
『どうにも言葉にしづらいのですが、こういう時こそ感じたことをフレッシュなうちに何らかの形で表現することが大事なんだな』
ぼくも、エネルギー保存の法則じゃないけど、すごいもの見て受けた熱や感動。そういうものって一時余韻として残るし、温泉の後のように体の芯にポカポカ残るんだけど、数週間経つとどんどん新鮮さが消えていくのよね。
僕は、受けた熱をなるべく「言葉」に変換するよう努力しています。
そうすると、いかに自分の言葉の世界が、偏狭で狭かったかを痛感すると共に、あの表現で受けた世界観と対応するくらい深度を持った言葉を獲得しないといかんと改めて思うし、それは読書や絵や音楽を見に行くことと連鎖していくんですよね。
そうなると、みずから行くというより、おのずから行くという感じになってきて、すごく深い層で表現が見れるようになる。
そういう意味で、プロジェクト大山は、僕なんかより遥か深い深度を、非言語を駆使して潜ってるなぁって改めて思います。
自分の仕事や読書や思索とか、いろんなとこに深い場所で影響を受けてしまいますね。
これこそ呼応なのかもしれんけど。
Makiさんが言うような、「開かれたプロ意識」って大事だよね。
場所とか時間とか観客とか、そういうのを自分中心に合わせるのは「閉じられたプロ」なんじゃないかと思うのです。
全ての環境や要因を、閉じたプロ世界ではマイナス要因であったとしても、そこを自分の意識を反転させることでプラス要因へと重ね合わせながら追い風にできるのが、風通しのいい「開かれたプロ」ですな。
古家さんは、まさしく、『いつもいつでも、ぱあっと開かれている』プロですね。
また、見に行きましょう。
>>>>>>>>>>>>Is様
そうそう。元々はIsくんと見に行ったのが始まりだよねー。
これも縁というものです。以前もすごかったし、今もすごい。発展して変化していっている感じが、本当に大自然を見ているようで深い感銘を受けますよ。
確かに、「場」っていう言葉に集約される世界観かもしれん。
あれは個人でやると、また全然違うだろうし。今となっては、古家さんが個人でソロとかを踊るのなんて想像できんもん。
日本人は「場」の意識は強いと思いますね。悪い意味で、閉じられた場にもなりやすい。
それは島国だからだし、盆地文化だし。「倭」という日本名は「和」であり、「輪」「環」ですからね。
ブログでも書いたけど、「開かれた場」であり、「開かれたプロ意識」なんだよなー。
おのずから閉じる傾向があるものを、みずから開こうとするところを感じます。
(自分の中でのKeyWord、「みずからとおのずから」「開くと閉じる」が二つも出てくる!)
いづれにしても、「同じことをしない」ことの凄さを感じます。
部分、部分では重なっているところはあっても、全体としては違うって意味ですね。
「いつも違う」というところに、仕事をずらしてでも見に行こうと思わせるものがあるんですよね。
ああ、これは二度と体験できないんだなぁって体感をして帰るとき、登山から降りた下山のときいと同じ良うな気持ちになります。やはり、「からだ」という自然を見に行っている意味では同じことなのかもしれません。
プロジェクト大山、天晴れ。