<意識の言語化>は、深層意識(無意識)を構造化するため、成長や発達のために大事なことだと思う。
それはカウンセリングや心理療法が果たしている役割でもある。
ただ、<意識の記号化>が起きると、その人は自由さと弾力性を喪失し、本質や魂がそっと奪われる。
閉鎖的な集団で、呼吸しない膜の中の空間で生きていると起きやすい現象だと思う。
<記号>は閉鎖的な集団の中で情報伝達のスピードは速いが、外部とのコミュニケーションを拒絶する。
それは、<人の話を聞かない><人の話を聞けない>人たちの内的世界で起きている現象だと思う。
だから、自分はその個人を責めない。意識が<記号化>され、奪われている被害者でもあるのだから。
■
<あたまがかたい>という比喩は、<意識の固定化>のことであり、<意識の記号化>なのだと思う。
<意識の固定化>は、言語をきっかけに起きる。
その時の言語は、詩や和歌で使われることばとは違うComputer言語のような<記号>。
その状況になると、つねに<記号的な発言>や<記号的な言動>を繰り返すようになり、周囲を戸惑わせる。
■
ある集まりや場が、内輪受けばかりに終始し、同じメンバーで同じようなことを繰り返していると、<意識の記号化>は起きやすい。
集団やシステムに、個の独立や自由や魂を奪われている人に起きている現象だと思う。
オリンピックエンブレム問題における、そこにかかわる人たちの言語世界を見ていると、そう感じる。
そこには<記号化>された意識が生み出す、<記号化>された言葉があふれている。
■
場づくりにおいて、<意識の言語化>と<意識の記号化>の峻別は、注意深くあらねばならない。
それは、宇宙のようにオープンシステムの開放系にするのか、人間のエゴが作り出すクローズドシステムの閉鎖系にするのかが、違いを生み出す母体になるのだろう。
細胞膜も皮膚も呼吸している。
意識は不定形なもので流動性のあるもので、だからこそ意識の変容が起きうる。意識は、植物における土壌のようなもの。
意識が固まると人生やいのち(Life)は膠着し、意識がほどけると人生やいのち(Life)は流れていく。そこに人間の治癒や成長などの可能性もある。
■
そういう視点で、個の独立や自由や魂を奪われている人たちの発言を見ている。
どういう社会や未来に自分が生きたいのか、という切実な視点で。
彼らの治癒と真の自由とを祈りながら。
それはカウンセリングや心理療法が果たしている役割でもある。
ただ、<意識の記号化>が起きると、その人は自由さと弾力性を喪失し、本質や魂がそっと奪われる。
閉鎖的な集団で、呼吸しない膜の中の空間で生きていると起きやすい現象だと思う。
<記号>は閉鎖的な集団の中で情報伝達のスピードは速いが、外部とのコミュニケーションを拒絶する。
それは、<人の話を聞かない><人の話を聞けない>人たちの内的世界で起きている現象だと思う。
だから、自分はその個人を責めない。意識が<記号化>され、奪われている被害者でもあるのだから。
■
<あたまがかたい>という比喩は、<意識の固定化>のことであり、<意識の記号化>なのだと思う。
<意識の固定化>は、言語をきっかけに起きる。
その時の言語は、詩や和歌で使われることばとは違うComputer言語のような<記号>。
その状況になると、つねに<記号的な発言>や<記号的な言動>を繰り返すようになり、周囲を戸惑わせる。
■
ある集まりや場が、内輪受けばかりに終始し、同じメンバーで同じようなことを繰り返していると、<意識の記号化>は起きやすい。
集団やシステムに、個の独立や自由や魂を奪われている人に起きている現象だと思う。
オリンピックエンブレム問題における、そこにかかわる人たちの言語世界を見ていると、そう感じる。
そこには<記号化>された意識が生み出す、<記号化>された言葉があふれている。
■
場づくりにおいて、<意識の言語化>と<意識の記号化>の峻別は、注意深くあらねばならない。
それは、宇宙のようにオープンシステムの開放系にするのか、人間のエゴが作り出すクローズドシステムの閉鎖系にするのかが、違いを生み出す母体になるのだろう。
細胞膜も皮膚も呼吸している。
意識は不定形なもので流動性のあるもので、だからこそ意識の変容が起きうる。意識は、植物における土壌のようなもの。
意識が固まると人生やいのち(Life)は膠着し、意識がほどけると人生やいのち(Life)は流れていく。そこに人間の治癒や成長などの可能性もある。
■
そういう視点で、個の独立や自由や魂を奪われている人たちの発言を見ている。
どういう社会や未来に自分が生きたいのか、という切実な視点で。
彼らの治癒と真の自由とを祈りながら。
もうひとつ、『記号化』で思い出す事は、息子が自閉症であると診断された発達検査です。彼が0点だった項目があるのですが、それが『概念化』。その検査の質問は、「鳥と飛行機と、どこが似ていますか?」期待される解答は、『空を飛べる、羽がある』など。息子の答えは、「全然似ていません。(きっぱり。)」その後、『オレンジジュースと牛乳の似ている点は?」などの質問にも、全て「全然似ていません」と答えていました。その項目のみ0点、というのは間違いなのではないかとされて、二度検査しましたが、同じ結果でした。違いが重要なのだ、差異を切り捨てて「同じ」などとは決して言わないのだ、という息子の決意が見てとれるようでした。自閉症の特性のひとつとして、よく『融通がきかない』と言われますが、その表現もまた、きらめく現実を取りこぼした記号であると思います。
言葉は現実の凍結。
コトバは物事を規定しますから、そのことで得られるものと失われるものがありますよね。
凍結で切り捨てられたものを忘れない。本当に大切です。
コトバや名前は世界の分節化の基本ですし、禅でも仏教でも、無分別、無分節の融通無碍の世界を求めるときに、必ずコトバとどう向き合うのか、ということが問われると思います。
禅でも不立文字と言い、大切なことはコトバにできない、というのを第一義にしていますが、だからこそ、それを説明するために禅問答のような多くの言葉を必要としますよね。
息子さんのお答えは、本当に真理をついていると思います。
なんとなく正解を察してそこに合わせてしまう、というのが人間は無意識にでもありますが、そればかり続けていると自分の本当の考えというものがよく分からなくなりますよね。
その感性が素晴らしい!と言える大人や周囲の環境さえあれば、素敵な才能の芽は摘まれないのにな、と思いますね。
でも、雑草のように、踏まれても踏まれても起き上がる強さも必要なんでしょうね。
自分も、社会との葛藤にもまれて、成長しました・・・・(^^;