日常

「対談 前田英樹x安田登 からだで作る芸の思想」

2015-09-08 00:40:50 | 
フランス思想、言語論などで多数の本を書かれている前田英樹さんと、能楽師の安田登さんの対談本。
「対談 前田英樹x安田登 からだで作る芸の思想」大修館書店 (2013/6/10)
を読みました。

この本はとても印象的で刺激に富む発言が多く、色々なInspirationを受けました。
素晴らしい本でした。



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<商品の説明>(Amazonより)
剣術、能、寄席の芸。それぞれの道において体得したものを語り合い、掘り下げる中から、行き詰まった西欧文明原理を超える古くて新しい身体知にもとづく文明原理が新たな意味合いを帯びて立ち現れる。

著者について
前田英樹
1951年生まれ。立教大学現代心理学部教授。専門はフランス思想、言語論、表象文化論。
新陰流剣術の練達の使い手としても知られる。
著書に『沈黙するソシュール』(講談社学術文庫)、『独学の精神』(ちくま新書)、『言葉と在るものの声』(青土社)、『倫理という力』(講談社現代新書)など。

安田登
1956年生まれ。下掛宝生(しもがかりほうしょう)流ワキ方能楽師として、国内外での講演や小中学生向けの能のワークショップに取り組んでいる。
また、深層筋を活性化して身体技法を向上するという「ロルフィング」(整体法)を行うことができる“公認ロルファー”の一人でもある。
著書に『身体能力を高める「和の所作」』(ちくま文庫)、『身体感覚で「論語」を読みなおす。』(春秋社)、『能に学ぶ「和」の呼吸法』(祥伝社)など。
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前田英樹さんの著作もほとんど読ませてもらっていますが、ご専門はフランス思想や言語論なので、ソシュールや空海など言語に関する著作が多いのですが、新陰流剣術もされているので、身体論のことも非常に深い洞察と実践がある方です。

安田登さんは、能楽師でもありロルフィングという、アメリカの生化学者アイダ・ロルフが創始したボディーワークの数少ない指導者の資格(すごく難しいみたいです)も持たれています。その上で、能楽や古典芸能、象形文字の世界を一般向けに分かりやすく表現されている素晴らしい方です。
安田登先生が広尾でされている寺子屋には自分も定期的に伺っていて、そちらで常に学ばせてもらっています。
→寺子屋などの情報はTwiiterより
安田登@eutonie






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前田:
現代剣道が反発原理に則っているのに対して、武術では体全体がすべるように移動する
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前田:
新陰流の剣術では、反発原理ではなく体の軸の移動を使うんです。
イメージとしては、地面を蹴らずにスーッと浮いて流れるような移動法なんです。
それを支える基本はすり足になります。
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今回の対談で何回も出てきた<反発原理>という言葉。
自分の<からだ>と<環境>を根本的にどういう関係性でとらえていくか、というのが、からだの動きの特徴になっていくようです。

地面を蹴って、自然と反発させて体を動かせるのではなく、自然と同化させるような身体のさばき方。
このことは、言葉で言うよりも体で動かしてみた方が分かりやすいです。

<からだ>と<環境>をどういう関係性でとらえていくか、というのは武術や芸能の本質とも関連してきます。


ちなみに、すり足は、やってみれば分かりますが、
深層筋(具体的には大腰筋(major psoas muscle)。脊椎からべったりこびりついて大腿骨まで伸びている)が鍛えられるので、足腰が間違いなく丈夫になると思います。
足の裏もべったり地面にくっつけながら微小な動きをするので、足底と脳とでやり取りされる末梢神経のやり取りなどが、脳にもいい影響を与え続けると思います。


Iliopsoas(Wikipediaより)
⇒(psoas majorと書いてあるのが大腰筋のことですが,身体の奥深くの腰椎にべったりこびりついている筋肉が身体のコアを支えているのがわかります.通常の筋トレでは表層筋(見える筋肉)をメインに鍛えているわけですね.)



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安田:
能の「舞」は「回る」と語源が同じだとも言われています。
ぐるぐる回っているうちに意識状態が変わって霊が乗り移る、そんな芸能が能のルーツなんじゃないかと思うのです。

能が芸能として人に見せるようになったとき、本当に憑依してしまったら芸能にならない。
そこで、足指で地面をつかむのはできるだけ憑依しないようにする工夫なんじゃないか
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→舞う(回転、螺旋)という動作。
霊や芸能。
イスラムのスーフィズムもくるくると回転する動きです。
頭の先から自分の意識がすり抜けていかないように、大地をぐっと踏みしめて現実と着地するというのは実践的な視点。

<スーフィズム>
トルコ 世界遺産・メブラーナ教の舞  聖地-コンヤの貴重な映像
スーフィーの旋回舞踏 日本語字幕解説付き
「旋回することで、すべてのことが回り出す。
あなたが自分自身の中心に
動くことのない核をみいだすまで回るのだ。」





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安田:
「リズム」というのは、基本的には存在しないある仮定の時間を設け、それを等分していくことで生じるもの。
「拍子」はシテとワキのやり取りであるとか、鼓同士や、打楽器と笛との掛け合い、あるいは地謡への受け継ぎにしても、その場の呼吸をお互いが感じ合い、そのつど基準になる時点が固定されずに動いていく。
ですから常にゆらいでいて、今が基準になる「1」なんです。
今が1でこれから時間をつくっていくというのが拍子なんです。
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いわゆる天体の動きはリズム。厳密に数値化できる。だから、日食も予言できる。
ヒトの呼吸は「間」。たえずゆらぎがある。

拍子や間が数値化できず、場の中で決まる。
しかし、その場にいる人たちには、「もうこれしかない」と感じられたところに収れんしていく。
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リズムや拍子の違い。
リズムは、天体や人体の中に最初からある時間の刻み方に由来している時間性。
それに対して、<拍子>は、呼吸から生まれる関係性の中で揺らぎ続ける時間性。
その空間ではもうこれと言ったところに収れんしていくというのも面白いです。
それは、観客も外野で関係なく見ている単なる傍観者ではなく、場や環境の一員でもありますよね。


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安田:
掛け声(「ヨー」「ホー」)の前に、腹に息を溜めることを「コミ」という。
「コミ」とは呼吸。
世阿弥「せぬ隙(ひま)」:しない間(あいだ)。無音の時間、無の時空間が大切。

コミを観客も共有すると、能楽堂がひとつの呼吸する空間になる。能楽堂全体が呼吸をしている。
西洋のように高揚するのではなく、鎮静化する。集中したリラックス空間になる。

コミの呼吸は吐く息。高揚とは逆に持って行く。

能は、集団でひとつのことをしようとするのではなく、「ひとり」を中心として個を深めていこうとする傾向がある。

「ひとり」重視の上に成立しているのが日本の武道や芸能。そこで「間」が重要。
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→呼吸の間、腹に息を溜める「コミ」を、観客も共有すると、空間自体が呼吸で同期してくる。
世阿弥の複式夢幻能も、観客や空間全員で意識状態をチューニングさせて、場全体で鎮魂を行うものだと思っています。
だから能楽堂自体もああいうサイズになるんでしょうね。ほどよいサイズ感、距離感があると思います。

ただ、だからと言って全体主義になるわけではありません。
個人個人が自立していて、個を深めた芸能に、観客が引っ張られて同期していくわけです。
だからこそ、「間」という、演じ手独自の時間性が出現してくる。そこで全体主義にならない結界が引かれているわけです。
それは、外界にある「リズム」に対する、関係性で決まる「拍子」とも通じるものがあります。



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前田;
新陰流の流祖、上泉伊勢守の偉いところは敗者を作らず、共鳴者を生みだした。
命を奪わずに命の新しい意味を与えた。

重視したのは敵に勝つことではなく、勝つとは何かを予め知りつくす真の法(のり)であった。
その至高の追求は、彼が作為した様々な「太刀(かた)」のうちに結晶して伝えられた。
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勝ち負けということを超えていくという、剣の道を極めた方の世界観は素晴らしいです。
勝ち負けの次元にいると、常に戦いに巻き込まれ、最終的には負けか死ということでしか終結を迎えることができません。
これは、井上雄彦さんが「バガボンド」という漫画で語られている主題にも通じると思います。

勝ち負けを目的とするのではなく、剣術を通して「命」に新しい意味を付与する。その共鳴者を増やしていく。
そういう次元の違う世界に到達した<道>の世界は、西洋でのスポーツが行きつく先とは、すごく対照的に感じられます。
そんな言葉にならない深い「思い」を、「かた(太刀・型)」として無言のうちにからだ言語で継承させた、ということに浪漫を感じます。



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安田:
名人と呼ばれる能楽師は、大河の流れのように、動きはまったくないんですが、その方の中に何かが動いていて、立っているだけで感動を与える。

前田
身の置き方、立ち方自体が、すでにこう世界から来る大きな問いに対するひとつの回答として成立しているんですね。
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安田:
夢幻能では、シテ(主役)はあの世の人だったり神さまだったりして、非・人間の存在です。
それも今のヒトではなく、過去から訪れる非・人間です。
それに対して、ワキは現実の人間。
その二人が出会い、最初は人間の世界の時間が流れているのですが、
いつの間にかシテ(非・人間)の時間、すばわり過去の時間にワキが取り込まれていって、
いつの間にか「今が昔」になってしまうという芸能です。
シテに取り込まれていく時、シテとの掛け合いの謡で間がそれを表現します。
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→こういう観点で能を観賞すると、より深く能の世界に入って行けます。
そこでは過去も未来も色々な時間が交錯する。
だから、色んな音が不定期に入りこみ、意識は変成状態となり、ある時には寝てしまうのです。

名人能楽師のたたずまいの中に、そういうものが結晶化されていて、後は感じ取るものの感性の問題でもあるようです。






ここからは、響いた発言を簡潔に。
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・型は先人達が創意工夫した積み重ねでいまに至る。色んな人の創意工夫のエッセンスなので、自分ひとりの力でどうにかできるようなものではない。
それをきちんと身につけることが大事で、それによって個人のレベルを遥かに超えたものができる。
・能は、「こころ」の深層にある「思い」を演じる芸能。
・「こころ」は変化する。好きになる対象は変わっても、好きになるという心的機能は変わらない。それを「思い」と名付ける。
・意識している身体は表層の「からだ」。殻や表皮のようなもの。その奥には深層の身体「み(身・実)」がある。からだは加齢で変わるが、殻の奥には不変の「身」がある。
・表層のからだは、こころや感情を表現するには適している。能の型は、深層の身による動きで行う。お客さんは見ていると、自分の中の思いが刺激され、ひとりひとりが違うことを感じる。
・思いは全人類共通なので、全人類に感動を与える。非常に深い体験で事件として思いに振れることがある。それを体験した古人が「型」として冷凍保存している。
・能の型を言語で表現するのは難しい。話し手と聞き手で言語の共有レベルが違うと全然伝わらない。
・世阿弥「体心捨力」 心(シン)を体にして力(リキ)を捨てよ。「体心」とは、芯を自分の体とすること。コアの深層筋を使って体幹を充実させること。
・リキ(力):強いものを何とかする それを捨てることが捨力。
・霊力:「み」「ひ」が静的な霊力、「ち」は動的な強い霊力
・日本の弓術 ヘリゲル「腕の筋肉をゆるめ、力を抜いたまま強弓をひけ」
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→型は時空を超えて伝わっている身体の知恵の結晶。
圧縮保存を解凍させて意味を読み解かないと、時代性の異なる時代の意味は読み解けない。

ひとの表層部分「こころ」の奥には、全人類に共通の「思い」がある。
同じように、表層部分「からだ」の奥には、不変の「身」がある。
表層の感情は「こころ」「からだ」のゾーンでおこなわれるが、深層の「思い」は「身」のレベルで表現されている。
ひとは層構造になっている。だからこそ深めれば深めるほど、それは「思い」や「身」のレベルへとつながり、普遍性を帯びる。

安田先生の洞察は、深い・・・。




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前田
反発原理は動物が行動するときの原理
植物は同化・吸収・融合の原理

動物も草食だと植物の傾向を残す。

反発原理が動物的な動きだとすると、
軸移動を立てて全体の中に入り込むという動きは植物的な生命のあり方に通じる

自然を征服するのではなく、自然の中に入り込み、自分の芯を立てて実らす。
植物的な生は、闘争原理ではなく、土の中に根を張り入りこんでいき、光合成ででんぷんを形成する。周りの中に溶け込みながら、軸を立てて自分を養い育てる。全体とある関係を結ぶことで生きる、ある接点を取ることで融和的な関係をつくる生き方。
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武術という技芸は最も闘争的な状況を突きつけられるんだけど、最終的にこの問題に植物原理はどう応じるのかという、そうういうところに日本の武術の発生があったのではないか。
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反発・征服原理ではすぐに限界がくる。
スポーツのようにゼロコンマ何秒差で人を競う次元の争いは人間を立派にしないだろうということ。
歳をとらないと達することのできない技芸は、人間という生き物を立派にしますよ。そのことで勝ち負けを争う必要は少しもない。
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べルクソン
生物進化で、植物的な生を選択するか、動物的な生を選択するか、で大きな逡巡が生命に会った。
原理として深く異なる二つの方向があった。動物的傾向と植物的傾向。

植物性をどう取り戻して立て直すか。
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→前田さんの「植物原理」に関する論考は、自分も全く同じ考えを持っているのですごくうれしい。
ひとの体にも植物性臓器と動物性臓器がありますが、動物性臓器(皮膚や脳など)が植物性臓器(内臓など)を覆っているので感じにくくなっています。
そのことが、植物性原理を忘れかける要因でもあると自分は思います。
(詳細は、<サンガジャパンVol.21(2015Summer)>に論考を載せました。)


動くもの、としての動物性原理は、反発原理で動きますが、
植わったもの、としての植物性原理は、同化・吸収・融合の原理。
今後はこういう自然と敵対しない原理が再度重要視されるでしょう。
これまで、あまりにも自然を破壊しすぎました。その反省は誰もが感じているのに、そこを方向づける哲学的な思考の原理が説得力が少なかったからなのか、いまだに自然破壊はとまりません。
キーとなるのは<植物性原理>だと思います。
植物の生き方や在り方から、メタファーとして多くを学ぶ必要があると思います。


からだの使い方は、人間にとって大切で切実な問題ですが、その極めた形としてスポーツをあげてしまうと、それは勝ち負けを競う動物原理の延長です。
そうではなく、植物性原理の延長として深められてきた、術や道の世界としての身体運用法こそ、今後はもっと大切にされるでしょう。
そして、東洋では<体の使い方>の成長と、<人格>や<人間性>の成長とが一致したものと考えられてきたということも大事なことです。
人格や人間性の発展が伴っていなければ、そのからだの運用方法は、どこか間違っていたのでは?と考えるわけです。

道徳は、「あたま」で理解して「からだ」を無理やり運用するものではなく、「からだ」そのもので学習するもの。
そこにこそ、古典芸能や術や道の世界の深みと未来への可能性をみます。





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安田
動くのは自然なのに、人間が止まってエネルギー交換をしようと決めた時に「時間」が生まれたのではないか。
止まっているんだけど流れている時間というものを獲得した。
その時間の獲得によって未来ができ、耕作ができ、灌漑農業、循環型の時間ができ、
そういう時間をつくることで植物的な時間の中で生きていくことが可能になった。
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べルクソン 
「万人の思考に実在の時間を回復させること、一切を<運動><変化><持続>それ自体として捉えなおす。」
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安田先生の時間論も素晴らしいですね。
動くものが止まる時、そこで流れる時間と言う概念ができた、ということ。

実際、時間を構成する未来や過去というのは、<現在>で夢想し想起する、脳や頭の働きが生みだす<概念>でもあるわけですから。



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前田:
本居宣長の「皇国(みくに)」は、米作りによる祭りの暮らしに基づいた国という意味。
国とは耕される土地のこと。
国の限界は、人力が耕せる土地の広さに一致していた。

「皇国(みくに)」の暮らしでは、神さまから依頼された米を作り、神さまできましたよ、とみんなで祭りをして、次のお米をつくる循環を生きる。
循環的な暮らしの中に恒久平和の原理がある。
そういう暮らしがあるところでは、世界中どこでも「皇国(みくに)」。
「日本」を表層筋とすると、「皇国(みくに)」は深層筋のようなもの。
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なるほど。本居宣長の古事記伝は、名前は聞いているけれど、原文は読んだことがない。
今後も原文を全文読むと言う機会が訪れるのかどうかはよく分かららない。
前田さんの解釈は、自分の中での本居宣長の新解釈だった。

「皇国(みくに)」という概念が、米作りによる祭りの暮らしに基づいた国、という循環型の理想的な実現可能な社会として作られた、というのは驚きだった。




安田先生の日本の芸能の起源に関する発言も面白い。
日本の芸能の起源には二つの対比的な流れがある。

一つ目は、アメノウズメの命。天岩戸での神聖芸能。神々を喜ばす芸能。
忘れてならない二つ目は、海幸・山幸にまつわる、征服芸能。屈辱の芸能。
そこでは、負けた様を何度も繰り返す、と言う芸能を演じさせる。
負けた海幸は、山幸の前で負けた様を永遠に演じる、という屈辱の芸能としての歴史もある。


赤い色を掌と顔に塗り、負けた兄の海幸は、勝った弟の山幸にこう言う。
「私はこんなにも身を汚しました。これから永遠にあなたの俳優(わざおぎ)者とならむ」と。
面白いことをして笑われる役者として演じる。
被征服民としての芸能民がつくったすごいメタファーとしての芸能隠れた歴史がある、と。

こういう負けた人たちの歴史、屈辱の歴史も、芸術や美という形で高い次元に昇華させる文化に、自分は深い魅力を感じます。




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最後に前田さんの勝つことの理想に関して。
そこには、型の反復という方法でしか成立しえないものがある。
自然の流れの循環の中に自他の関係を絶えず立て直す、ということが勝つことの理想であると。

そこでは、相手をやっつけるとか倒すとか、そういう動物性の対立原理ではなくて、
自然の中で自分がどうあるか、という植物性の融合の原理があります。



伝統芸能や道と言う中で大切にされてきたもの。
「型」というのは表面的には極めて分かりにくいですが、そこには先人の心身に関する思いの結晶がある。
そして、そこには現代が失った人間に対する深い洞察があります。


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すごく刺激的な素晴らしい本でした。
お二人の心身に対する実践だけではなく、そこを巧みに言語化できる深い知性を端々から感じました。

第3部では、桧山うめ吉さんという落語芸術協会所属の俗曲師の方との対談もあります。
この方との対談もすごく面白く、桧山うめ吉さんの音や声を、Youtubeで聞いて、CDも何枚も買って聞いています。
素晴らしく不思議な呪術性を感じさせる神秘的な声です。

○桧山うめ吉さんHP
くらしき観光大使うめ吉の「倉敷応援」ブログ
<Youtube音源>[Full Album] Umekichi - The Voice of Geisha Doll



伝統が受け継ぐ心身の知恵。
そういうことの一端を、伝統の中から感じることができればと思い、自分も能楽の稽古をしております。とにかく面白い!




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『風姿花伝』
「陰陽の和(くわ)するところの境を成就とは知るべし」

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