日常

武満徹エッセイ選―言葉の海へ

2016-07-14 07:50:58 | 音楽
武満徹さんは、文章も音楽も、広い意味でのコトバや表現で同じ地平にあり、同じ質として表現されるもののようだ。
質を表現するには、質によってしか語れないことを、武満徹さんや村上春樹さんに触れるたびに、思う。

EGO-WRAPPIN’「ROUTE 20 HIT THE ROAD」の融通無碍で自由自在な音楽を聴きながら、ふと武満徹さんのコトバと共鳴するものを感じたのです。音楽の質に関して。
エゴラッピン 日比谷野音LIVEと20周年(2016-07-12)



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武満徹『Mirror』より(武満徹エッセイ選―言葉の海へ

インドネシアでの、あの溢れるようなガムランの響きの中で感じたことも同じであった。
音楽は個人がそれを所有することはできない、が、しかまた、音楽はあくまでも個からはじまるものであり、他との関係の中にその形をあらわす。しかもこれは社会科学的なテーゼではなく、むしろ神学的主題なのである。

友が言うように、音楽は祈りの形式(フォーム)であるとすれば、人間関係、社会関係、自然との関係、(そして、神との関係)すべてと関わる関係(リレーション)への欲求を祈りと呼ぶのだろう。
たしかに私は、音楽がそこに形をあらわすような関係というものをまちのぞんでいる。

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武満徹『ぼくの方法』より(武満徹エッセイ選―言葉の海へ)

音楽が、人間の発音する行為と、素朴な挙動のなかから生まれたことは事実なのだ。
しかし、ぼくたちは、いつか長い歴史の中で、便宜的な機能の枠の中でだけ《音》を捉えようとしていた。ぼくの周囲にある豊かな音は、それらは、ぼくの音楽の内部に生きなければならない。ぼくは勇敢にそれをすべきだろうと思う。

異なったものに、また時としては矛盾するものにさえ、調和を与えるということは、われわれに「生きる」すばらしい道を歩かせる訓練なのだ。
《音》はひとつの持続であり、瞬間の提出である。
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以下は、
武満徹さんとキース・ジャレットとの対談より。夢のような対談。

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ジャレット
「芸術のできることというのは、ほんの瞬間、人の内側に入り込むことだけ。そして、これは特に音楽において可能なことだと思う。」
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武満
(ジャレットの演奏を評して)
「たいへんパーソナルでありながら、ユニヴァーサルというか、いやもっと宇宙的(コズミック)な、ジャレットさんが弾いてるってことを忘れちゃうような世界ですね。
つまりそれは、音楽が満ち溢れていて、音楽が見えなくなっている状態というか」
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ジャレット
「私自身のサウンドを聴きたい、私の音楽を所有したいという欲望は、今はもうなくなりました。
今は、他の人の音楽の中で欠けていると思われるものを取り戻したいと思っているのです。彼らに音楽を返してあげたいのです。」
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『武満徹対談選―仕事の夢 夢の仕事 (ちくま学芸文庫)』


→○即興(improvisation)(2010-11-09)
→○武満徹「音、沈黙と測りあえるほどに」(2011-10-18)