■「イメージ」の力
「イメージ」が持つ力は強い。
イメージがどんなにデタラメに見えても、それ自体が強い生命力を持つ。
噂や偏見というものも、「イメージの力」そのものの伝播力の強さだと思う。
相手がどう思うかとか相手の心情とかはどうでもよくなっていて、単に立場が弱い一点を見つけて、そこめがけてイメージの力が襲いかかるようだ。
誰かが抱えるモヤモヤしたものとイメージそのものの力が結びつくことで、偏見や虚像は簡単にできあがる。そして、人に襲い掛かる。
<何かを好きになる>こと。
その対象そのものを好きなことも、もちろんあるけれど、イメージの力そのもので何かを好きになることも多い。
それ自体への愛情は最初からなくて、単にイメージの力に動かされてるんじゃないかと思うことがある。
流行とかはいい例だと思う。誰かが持っていたとか、映像でのイメージと、自分のイメージ。そういうものが錯綜して、そのイメージの力に強く動かされる。
何かを所有した途端、そのものに全く興味がなくなる人がいる。
これは人間相手でも見ることがある。いわゆる、<恋に恋する>状態。
その人は、きっとそのものや、その相手が好きなんじゃなくて、どこかからやってきたイメージの力に動かされていたのだろうと思える。
イメージは、そうして人の無意識の領域に、その人の死角のような場所を激しく駆り立てるので、イメージに動かされてる人も何がなんだか分からない人も多いと思う。
それほど、イメージの力は強い。
■「概念」と「イメージ」
それぞれの人が持つ「せいこう」「しゅっせ」「しあわせ」「せかいいち」「よい」「わるい」「しぬ」「あい」・・・いろんな概念も、ほとんどがイメージの世界で作られている。「概念」自体が、何か手に持ったり触ったりできるものではないから、基本的に「イメージ」の力はかなりの部分を占める。
イメージの生命力に支配されている人は、話し合っても分かりあえないことが多い。
そのイメージの力に操られ、支配されている人はなおさらだ。
「概念」は明確だけれど、生命力に乏しい。
「イメージ」はあいまいだけれど、生命力にあふれている。
■イメージの支配
「イメージ」の強い力を(意識的にも無意識にも)悪用する人もいる。
今のメディアは過去の呪術と同じに見える事がある。
強いイメージを流布して、人のたましいを縛り、支配するから。
そんなイメージを配る人たちも、イメージの力に支配され操られているだけかもしれない。
そんな優しさを持って見れるときと、あまりに悪質だと思えることもある。
■絵の力
安っぽい「イメージ」の焼き増しにつぶされないために、「きょしょう」の「げいじゅつ」作品の中に深いイメージの力を見ることは大事だと思う。
「ぴかそ」も「ごっほ」も「せざんぬ」も・・作り手自身から溢れ出てくる「イメージ」を見ることが大事だ。
誰かのイメージの、イメージの、イメージの・・焼き増しされたイメージに影響されすぎて、支配されないように、見る。
偏見や固定観念を捨てて、ふと道端に落ちてるものを見るように、見る。
イメージの力に可能性を見つつ、それでいてその力に支配されないように、見る。
■イメージという異界
「しあわせ」という概念も、誰かがつくった「イメージの世界」に支配されてる人がいる。
そんなイメージ世界は抽象絵画のようなもので、空想の中でしか行けない場所。
だから、その人は、実際はどこにも行けない。
<空想家>を馬鹿にする<現実家>と称される人の方が、「イメージ」に支配されていて、その異界の世界に閉じ込められてる人も多い。
「しゅっせ」して「せかい」で「はたらく」「こくさいてき」な「ひと」になり、「おかね」を持ち「くるま」を買い「きれい」な「おくさん(おっと)」と「けっこん」をして・・・(えいえんにつづく)
「イメージ」はヒトを豊かにするけど、支配され操られるとイメージの異界に閉じ込められる。
■夢
夢は、無意識と意識をつなぐイメージとして見ることができる。
夢の世界は途方もなくデタラメでまともに扱う気にもなれないかもしれないけれど、そこには豊かなイメージの海が広がっている。
イメージの力は強い。
時に人を操る。
愛や恋と形を変えることもあれば、戦争や争いや憎しみを引き起こすこともある。
まるで、人を乗り物にして、イメージの力そのものが移動しているようだ。
イメージの力は強いから、人を豊かにして広い世界に連れて行ってもくれるし、人を不幸にして狭い世界に閉じ込めてしまうこともする。
それは、原子爆弾と同じようなもので、使う人次第なのかもしれない。
人は、「成長する」というプロセスが誰にも組み込まれているから、日々が昨日から今日へと変化しながら移ろい続けているように、人も変化しながら移ろい続けて、使い方を間違いないように学んでいくのだろう。
「イメージ」が持つ力は強い。
イメージがどんなにデタラメに見えても、それ自体が強い生命力を持つ。
噂や偏見というものも、「イメージの力」そのものの伝播力の強さだと思う。
相手がどう思うかとか相手の心情とかはどうでもよくなっていて、単に立場が弱い一点を見つけて、そこめがけてイメージの力が襲いかかるようだ。
誰かが抱えるモヤモヤしたものとイメージそのものの力が結びつくことで、偏見や虚像は簡単にできあがる。そして、人に襲い掛かる。
<何かを好きになる>こと。
その対象そのものを好きなことも、もちろんあるけれど、イメージの力そのもので何かを好きになることも多い。
それ自体への愛情は最初からなくて、単にイメージの力に動かされてるんじゃないかと思うことがある。
流行とかはいい例だと思う。誰かが持っていたとか、映像でのイメージと、自分のイメージ。そういうものが錯綜して、そのイメージの力に強く動かされる。
何かを所有した途端、そのものに全く興味がなくなる人がいる。
これは人間相手でも見ることがある。いわゆる、<恋に恋する>状態。
その人は、きっとそのものや、その相手が好きなんじゃなくて、どこかからやってきたイメージの力に動かされていたのだろうと思える。
イメージは、そうして人の無意識の領域に、その人の死角のような場所を激しく駆り立てるので、イメージに動かされてる人も何がなんだか分からない人も多いと思う。
それほど、イメージの力は強い。
■「概念」と「イメージ」
それぞれの人が持つ「せいこう」「しゅっせ」「しあわせ」「せかいいち」「よい」「わるい」「しぬ」「あい」・・・いろんな概念も、ほとんどがイメージの世界で作られている。「概念」自体が、何か手に持ったり触ったりできるものではないから、基本的に「イメージ」の力はかなりの部分を占める。
イメージの生命力に支配されている人は、話し合っても分かりあえないことが多い。
そのイメージの力に操られ、支配されている人はなおさらだ。
「概念」は明確だけれど、生命力に乏しい。
「イメージ」はあいまいだけれど、生命力にあふれている。
■イメージの支配
「イメージ」の強い力を(意識的にも無意識にも)悪用する人もいる。
今のメディアは過去の呪術と同じに見える事がある。
強いイメージを流布して、人のたましいを縛り、支配するから。
そんなイメージを配る人たちも、イメージの力に支配され操られているだけかもしれない。
そんな優しさを持って見れるときと、あまりに悪質だと思えることもある。
■絵の力
安っぽい「イメージ」の焼き増しにつぶされないために、「きょしょう」の「げいじゅつ」作品の中に深いイメージの力を見ることは大事だと思う。
「ぴかそ」も「ごっほ」も「せざんぬ」も・・作り手自身から溢れ出てくる「イメージ」を見ることが大事だ。
誰かのイメージの、イメージの、イメージの・・焼き増しされたイメージに影響されすぎて、支配されないように、見る。
偏見や固定観念を捨てて、ふと道端に落ちてるものを見るように、見る。
イメージの力に可能性を見つつ、それでいてその力に支配されないように、見る。
■イメージという異界
「しあわせ」という概念も、誰かがつくった「イメージの世界」に支配されてる人がいる。
そんなイメージ世界は抽象絵画のようなもので、空想の中でしか行けない場所。
だから、その人は、実際はどこにも行けない。
<空想家>を馬鹿にする<現実家>と称される人の方が、「イメージ」に支配されていて、その異界の世界に閉じ込められてる人も多い。
「しゅっせ」して「せかい」で「はたらく」「こくさいてき」な「ひと」になり、「おかね」を持ち「くるま」を買い「きれい」な「おくさん(おっと)」と「けっこん」をして・・・(えいえんにつづく)
「イメージ」はヒトを豊かにするけど、支配され操られるとイメージの異界に閉じ込められる。
■夢
夢は、無意識と意識をつなぐイメージとして見ることができる。
夢の世界は途方もなくデタラメでまともに扱う気にもなれないかもしれないけれど、そこには豊かなイメージの海が広がっている。
イメージの力は強い。
時に人を操る。
愛や恋と形を変えることもあれば、戦争や争いや憎しみを引き起こすこともある。
まるで、人を乗り物にして、イメージの力そのものが移動しているようだ。
イメージの力は強いから、人を豊かにして広い世界に連れて行ってもくれるし、人を不幸にして狭い世界に閉じ込めてしまうこともする。
それは、原子爆弾と同じようなもので、使う人次第なのかもしれない。
人は、「成長する」というプロセスが誰にも組み込まれているから、日々が昨日から今日へと変化しながら移ろい続けているように、人も変化しながら移ろい続けて、使い方を間違いないように学んでいくのだろう。
でも、それに大きく動かされてるのは紛れもない事実なんだよね。そこはまさしく無意識の領域で。
明確な概念、あいまいなイメージ。
その2つを常に自分の中で強化して、鍛えて、ものごとを子供の目と大人の目を共存させながら見て行きたいものだよね。
ちなみに、パワーポイントのプレゼンってはやってるけど、ほんとあれはかなりの情報操作だなーって、作りながらも、他の人のをみながらも、常々思ってる。笑
僕はイメージ派というか、正確に理解できてない人だったので、最初の部署ではコテンパンにされておりました。ただ、部署が異動になってから、概念だけで理解できる人は意外に少なく、また上の役職にいる方々もイメージで考えてる印象が強いなぁと思っております。
概念をイメージにするだけで、だいぶ評価されましたけど、受け手がイメージ派だからそれにあわせたっていうだけなんですけどね。
ただ、イメージの持つ力ってほんと強いし、概念を恣意的に表現する方法もあるなぁと思いますので、出来る限り正確にポイントをつかんだイメージを提供できるように、自分が苦手な「概念の理解」をしなきゃなぁと思ってます。
これも外人がイメージを利用して言い訳したり、媚売ったりしてくるからワルイものはワルイと言わなきゃと思うところに繋がってくるんです。
村上春樹さんが、当時の日本の社会の空気に強い嫌悪感を感じていて、それを書いていると思った。
そして、その社会の空気感を人に憑依させると、ああいう精神世界になるのかな、と。
特に当時の学生運動と、その当時の社会の気分っていうのは、感情を押し殺して書いているけど、強い怒りや憤りのようなものを、行間からすごく感じながら読んでます。
おもしろいねー。
そうそう。「概念」は「おとな」で、「イメージ」は「こども」っていう比喩でもおもしろいよね。
常にその均衡とかバランスをはからないといけないんだろうね。
どこかの場所に決めちゃうのは一見楽なんだけど、長期的には自分の首しめちゃうんだろうね。
「イメージ」はあいまいだけれど、生命力にあふれている。
…って面白い!
太字だし(『ノルウェイの森』の「死は生の対極としてではなく、その一部として存在する」みたい…笑)
「概念」ってのは、いいかえると「社会化」するってことだし、それは、上手く生きていく上ではある程度必要なことだし、コスト低減になる。でも、やりすぎると、「常識」にがんじがらめになる。
「イメージ」は、生命の息吹のような感じで、うねりやドライヴ感がある。
このバランス感が難しいんだろうな-!