映画『インセプション』観ましたか?
すごく面白い!!
頭をすごく使うし、集中して見ないといかんけど、またDVDで観たくなる。
すごくいい映画。
これこそ、映像でしか表現できない世界観だと思う。
****************
原題:Inception
監督・脚本:クリストファー・ノーラン
ストーリー:
「ダークナイト」のクリストファー・ノーラン監督が、オリジナル脚本で描くSFアクション大作。人が眠っている間にその潜在意識に侵入し、他人のアイデアを盗みだすという犯罪分野のスペシャリストのコブは、その才能ゆえに最愛の者を失い、国際指名手配犯となってしまう。そんな彼に、人生を取り戻す唯一のチャンス「インセプション」という最高難度のミッションが与えられる。主人公コブにレオナルド・ディカプリオ、共演に渡辺謙、ジョセフ・ゴードン=レビット、マリオン・コティヤール、エレン・ペイジほか。
****************
映画の中で、「inception」は脳の中にアイディアを植え込むことだと言っていた。
ただ、英和辞典で調べると「はじまり」って意味でもある。
それが、「inception」。
■「たましい」
ネタばれしないよう注意しながら、感じた事を徒然と書きたい。
一番感じたのは、主人公のコブ(ディカプリオ)の「たましい」のレベルでの救済のようなもの。SFのスタイルを取りながら、すごく深く壮大な物語だと思った。
人が「たましい」を持つという考えは、それこそギリシア・ローマ時代からの長い歴史がある。
今の時代には、少しオカルトめいた言葉にとられやすいけど、「たましい」と称されているものは、誰もが持ってるものだと思っている。
自分の中で、「たましい」とは、
『人間を「こころ」と「からだ」に分けた時、それでは説明できないすべて』
っていう意味合いで使いたい。
逆にいえば、「こころ」と「からだ」をくっつけて連結させてるものだとも思う。
「こころ」や理性で考えていても、「からだ」は別の動きをしたりする。
逆もまたしかり。
そのふたつを連結するもの(=「たましい」)が奪われたり、支配されたり、損なわれたりすると、「たましい」は病んだ状態になる。
そういう人は時々みかける。「こころ」もそれなりにはたらいてる。「からだ」もそれなりにはたらいてる。
でも、「たましい」が病んでしまってるような状態。
見覚えがある。
僕は、主人公のコブ(ディカプリオ)の病んだ「たましい」を、自分から夢の夢の夢・・・という無意識の深い層に沈んで、自分のすごく深い場所で取り戻そうとする物語のように思えた。
優れた文学作品や絵本やファンタジー・・・は、国籍・文化・年齢・性別・・を超えて、人の深い場所に届く。
それは、まさしく人間に共通の「たましい」を扱う作品だからなのだと思う。
■夢、光と影の統合
僕らは日々夢を見る。
覚えていようが、覚えていまいが、人は眠らないと生存できないような仕組みになっている。
夢を見る事と生きる事は、かなり深い場所で、それこそ「たましい」の働きでつながってるかもしれない。
光があると影ができる。
影は見たくないものだけど、いづれ自分の中で光と影の統合を行う時期が来る。
光と影の統合は、日常レベルの浅い層で起きるというよりも、深い深い場所。深い内界の森の中で起きるんだと思う。
僕らが寝て夢を見る時、映画の登場人物のような「夢の住人」たちが、「わたし」を守るために命がけで闘って、起きた時に元気で生活できるように働いてくれてるのかもしれない。
日々生きていると、邪悪なもの、暴力的なもの・・・「わたし」を壊そうと侵入してくるものがたくさんある。
闇や影や悪や狂気や死・・・そんな闇の世界の吸引力はとても強くて、そちらに吸い込まれそうになることもある。
だからこそ、「わたし」の「夢の住人」たちは、「わたし」というひとつのまとまりを保ち続けるため、夢という内界の世界で、ご主人様に気づかれなくても、日々激しい闘いをしているんだろう。
その「夢の住人」たちの動きを、僕らは「心の葛藤」として感じているのかもしれない。
自分の深い場所で起きている事を、「小人さん」とか、「夢の住人たち」とかに擬人化して考えてみると、いろいろイマジネーションを刺激されて面白い。
実際、昔話はそういうものが多いんだと思う。
(⇒⇒⇒「こびとさん」(2010-06-14))
(⇒⇒⇒「あなたの中の虫」(2010-07-02))
Inceptionのクリストファー・ノーラン監督は、バットマンシリーズの「ダークナイト」という傑作も作っている。
その「ダークナイト」でも、まさに光と影の統合(融合)というテーマ性を感じたものだ。
(ブログで1年前に書いた感想⇒⇒⇒「ダークナイト(映画)」(2009-05-20))
宮崎駿さんの「風の谷のナウシカ」(漫画版)も、ナウシカの中にある光と影の統合の物語でもある。
その時に現れる「虚無」や「無力感」との闘い。
深い「たましい」の物語になると、避けては通れないテーマなんだろう。
(ブログで半年前に書いた感想⇒⇒⇒「風の谷のナウシカ」(2010-02-23))
■虚無
虚無って言葉は、なんとなくインパクトが強い。
「虚ろ」で、しかも「無い」ってとどめを指す漢字だし。
映画の設定では、夢の中で死ぬと夢から目覚める事になるけど、深い昏睡状態で見る夢の中だと、そこで死ぬと「虚無Limbo」に落ちて起きる事ができないとされてた。
字幕で「虚無」と流れた時、英語では「Limbo」と言ってたようだ。
Limbusは周辺・端を意味するラテン語で、地獄の「周辺部」の意味。
Limbo(辺獄)という概念は、三位一体と同じで聖書に登場するものではなくて、ローマ・カトリック教会の公式教義ではない。
ただ、「Limbo(辺獄)」の意味としては、キリスト教で洗礼を受けていない死者が行く、地獄と天国の間の場所。魂が行き場をなくしてうろついている場所のことを言う。
魂が救われないLimboの場所を、字幕では「虚無」としていた。
それもあって、人間の深い深い場所にある魂を救う映画なのだと思った。
■夢と現実(Reality)
『インセプション』を見てから、小学生の時を思い出した。
それは、「人は死んだらどこに行くのか」ということ。
実は、小学生のとき友達とぎりぎりまで考えた事があって(そういうよくわかんない話ばっかりしてた)、途中で頭がおかしくなりそうになったから考えるのやめてたんです。
当時はまだそれを引き受ける自分の「器」ができてなかったんだと思う。
・・・・・・・・
(仮説)
・・・・・・・・
夢は、実は入れ子構造になっていて、人は死んだら誰かの夢に入っていくんじゃないかと仮説をたてた。
だから、夢の中には死んだ人もよくわかんない人もいっぱい出てくるし、時間も空間もない。
(1年くらい前にもこういう変なことブログで書いたなぁ⇒⇒⇒「寝ること」(2009-06-25))
夢の体験はせいぜい5分くらいに思って起きるけど、実は夢の中の実体験としては80年くらいの人生をみんなが生きている。
その80年の人生を、いろんな人が5分くらいずつに夢を断片的に細切れに、分担して見ている。
夢の中の夢、そのまた夢・・・どんどんと、無限に入れ子構造になってる。
もちろん、この現実自体も、誰かの巨大な夢の中にある。
(そうなってくると、「夢」の定義次第って話もあるけど)
そこで湧くのが「じゃあどこが現実なの、Realな世界なの?」っていう疑問。
自分が小学生の時は、ここで怖くなって考えるのをやめてgive upした。
この世界が夢ならば、何やっても許されるじゃないかって思って、なんか怖くなった。
でも、自分も成長して、いろんなものを受け入れる「器」ができてきたのか、なんとなく自分の中で腑に落ちて説明できる気がした。
(もちろん。この話は全て仮定の上で話が進んでますのであしからず。)
■引き受けること
Realityとか現実っていうものは、まさしく自分がどこで線を引くかの問題なのだと思う。
そして、自分が一度線を引いて決めたら、それを全うしないといけない。
そのラインを引くということは、この生を引き受けるということ。
辛かろうが苦しかろうが、全てを引き受けるということ。
それがまさしく「生きる」ってことなんじゃないかと思う。
『この回っているコマがいづれ止まる世界』を現実だと決めるのは、他の誰でもない自分。
そして、そう決めたら、それこそが現実の世界の「はじまり」なのだということ。
そして、その決めた現実を、「生きると決める」ことが、「生」というものだということ。
・・・・・・・・・
テレビで自殺の話が出てくると、キレイ事ばかりをよく聞く。
安いヒューマニズムでは何も生まれない。
命が大事だ。なんて、そんなの言われなくてもわかってる。
自殺した人も、それはわかってる。
ほんとに僕らが指摘しないといけないのは、
この世に、自分で選択して生まれてくる事は絶対にできないということ。
この世界に投げ出されるように、絶対的な受け身の状態で生まれてくるということ。
そして、誰でもいつでもどこでも死ぬ自由があって、そんな不安定な世界で実は生かされてるってこと。
そういう前提こそが、自殺をどう考えるかの議論で大事なことなのだと思う。
だからこそ、人はどこかで自分が背負うものを全て引き受けて、生きる決意をしなければいけない。
この世には楽しい事や嬉しい事ばかりではないかもしれない。
戦争もあれば殺し合いも憎しみ合いもある。
そんな苦しみも哀しみも不幸も、そんなネガティブなものであっても、この世界の全てを了解して、引き受けて、「生きる」決意をしないといけない。
そのラインが、Ralityであり現実なんだと思う。
そこを基準にして、夢とか、夢の夢とか、夢の夢の夢の・・・っていう構造の基本設計ができる。
・・・・・・・・
夢や現実。
現実(Reality)は、自分が、自分で、決める。
そういう、自分が生を引き受ける覚悟のことを言うんじゃないかと思う。
そして、一度引き受けたら、この生を全うしないといけない。
自殺は、この映画示すように夢の中を永遠に落ち続けて虚無の世界へと吸い込まれていく。
そこは無間地獄のような場所で、「たましい」はどこにもいけない。
だからこそ、空想に逃げこまずこの現実に向かわないといけない。
同時に、この現実だけに埋没せず、豊かなイメージやファンタジーや空想と夢の世界も引き受けて、生きていく必要がある。
そんな入れ子構造の世界を、全部ありのまま引き受けること。
その決意が、生きることなんだと思う。
■ピアフ「水に流して」
この映画では、夢と現実の境界線を示すために、エディット・ピアフ「水に流して」の音楽が流れる。
その音楽を聴く事が、「夢」から「現実」に戻るサインだ。
エディット・ピアフはフランスのシャンソン歌手(1915~1963年)。
以前、ピアフの生涯を描いた映画の感想も、ブログに書いたことある。
(⇒⇒⇒⇒「エディット・ピアフ」(2008-10-15))
********************
エディット・ピアフ「水に流して」
Édith Piaf「Non, je ne regrette rien」
********************
Non, rien de rien
Non, je ne regrette rien
Ni le bien qu'on m'a fait
Ni le mal Tout ca m'est bien egal
Non, rien de rien
Non,je ne regrette rien
C'est paye, balaye oublie
Je me fous du passe
Avec mes souvenirs
J'ai allume le feu
Mes chagrins, mes plaisirs
Je n' ai plus besoin d'eux
Balaye mes amours
Avec leurs tremolos
Balaye pour toujours
Je repars a zero
Car ma vie, car mes joies
Aujourd' hui, ca commence avec toi.....
********************
いいえ。
私は何も後悔していない
私が人にした良いことも、悪いことも
何もかも、私にとってはどうでもいいこと
私は何も後悔していない
私は代償を払った、清算した、そして忘れた
過去なんて、もうどうでもいい
私は多くの過去を束にして
火をつけて焼き去ってしまった
私の味わった苦しみも、喜びも
今となっては必要がなくなった
私は過去の恋を清算した
トレモロで歌う恋を、清算した
永遠に清算してしまった
私はまた、ゼロから出発する
私の人生はすべて、喜びも
今は、あなたと共に始まる……
********************
■「はじまり」
映画「inception」は、夢(無意識)が何層にも多層構造をしている世界を描いていて、すごく不思議で、すごく深い場所まで誘われる映画。
この映画では、人間の深い深い内界で起きる「たましい」の救いのようなものを感じた。
そして、映画に出てくるような夢の住人達は、「わたし」の「たましい」を守るため、日々戦っているのだと思う。
inceptionは「はじまり」って意味もある。
エディット・ピアフの「水に流して」の終わりが「はじまり」として歌われているように、その人の「たましい」が救われて初めて、その人の現実は「はじまる」し、人生そのものが「はじまる」んだろう。
成長とは、光と影を統合していくことの積み重ねだと思う。
光と影を統合させて、人は自分の「器」を作る。
大きい器を作ることで、いろんなものをこぼさずに、いろんなものを肯定して生きていく事ができる。
それが成長ってことだと思う。
それは、「たましい」に直結する、人生を引き受けて生きていく上で、すごく大事なことなんだろうとも思うのです。
(またしても長大になってしまいすみません。
全部読んでくれたとしたら、ほんとありがとうございます。笑)
すごく面白い!!
頭をすごく使うし、集中して見ないといかんけど、またDVDで観たくなる。
すごくいい映画。
これこそ、映像でしか表現できない世界観だと思う。
****************
原題:Inception
監督・脚本:クリストファー・ノーラン
ストーリー:
「ダークナイト」のクリストファー・ノーラン監督が、オリジナル脚本で描くSFアクション大作。人が眠っている間にその潜在意識に侵入し、他人のアイデアを盗みだすという犯罪分野のスペシャリストのコブは、その才能ゆえに最愛の者を失い、国際指名手配犯となってしまう。そんな彼に、人生を取り戻す唯一のチャンス「インセプション」という最高難度のミッションが与えられる。主人公コブにレオナルド・ディカプリオ、共演に渡辺謙、ジョセフ・ゴードン=レビット、マリオン・コティヤール、エレン・ペイジほか。
****************
映画の中で、「inception」は脳の中にアイディアを植え込むことだと言っていた。
ただ、英和辞典で調べると「はじまり」って意味でもある。
それが、「inception」。
■「たましい」
ネタばれしないよう注意しながら、感じた事を徒然と書きたい。
一番感じたのは、主人公のコブ(ディカプリオ)の「たましい」のレベルでの救済のようなもの。SFのスタイルを取りながら、すごく深く壮大な物語だと思った。
人が「たましい」を持つという考えは、それこそギリシア・ローマ時代からの長い歴史がある。
今の時代には、少しオカルトめいた言葉にとられやすいけど、「たましい」と称されているものは、誰もが持ってるものだと思っている。
自分の中で、「たましい」とは、
『人間を「こころ」と「からだ」に分けた時、それでは説明できないすべて』
っていう意味合いで使いたい。
逆にいえば、「こころ」と「からだ」をくっつけて連結させてるものだとも思う。
「こころ」や理性で考えていても、「からだ」は別の動きをしたりする。
逆もまたしかり。
そのふたつを連結するもの(=「たましい」)が奪われたり、支配されたり、損なわれたりすると、「たましい」は病んだ状態になる。
そういう人は時々みかける。「こころ」もそれなりにはたらいてる。「からだ」もそれなりにはたらいてる。
でも、「たましい」が病んでしまってるような状態。
見覚えがある。
僕は、主人公のコブ(ディカプリオ)の病んだ「たましい」を、自分から夢の夢の夢・・・という無意識の深い層に沈んで、自分のすごく深い場所で取り戻そうとする物語のように思えた。
優れた文学作品や絵本やファンタジー・・・は、国籍・文化・年齢・性別・・を超えて、人の深い場所に届く。
それは、まさしく人間に共通の「たましい」を扱う作品だからなのだと思う。
■夢、光と影の統合
僕らは日々夢を見る。
覚えていようが、覚えていまいが、人は眠らないと生存できないような仕組みになっている。
夢を見る事と生きる事は、かなり深い場所で、それこそ「たましい」の働きでつながってるかもしれない。
光があると影ができる。
影は見たくないものだけど、いづれ自分の中で光と影の統合を行う時期が来る。
光と影の統合は、日常レベルの浅い層で起きるというよりも、深い深い場所。深い内界の森の中で起きるんだと思う。
僕らが寝て夢を見る時、映画の登場人物のような「夢の住人」たちが、「わたし」を守るために命がけで闘って、起きた時に元気で生活できるように働いてくれてるのかもしれない。
日々生きていると、邪悪なもの、暴力的なもの・・・「わたし」を壊そうと侵入してくるものがたくさんある。
闇や影や悪や狂気や死・・・そんな闇の世界の吸引力はとても強くて、そちらに吸い込まれそうになることもある。
だからこそ、「わたし」の「夢の住人」たちは、「わたし」というひとつのまとまりを保ち続けるため、夢という内界の世界で、ご主人様に気づかれなくても、日々激しい闘いをしているんだろう。
その「夢の住人」たちの動きを、僕らは「心の葛藤」として感じているのかもしれない。
自分の深い場所で起きている事を、「小人さん」とか、「夢の住人たち」とかに擬人化して考えてみると、いろいろイマジネーションを刺激されて面白い。
実際、昔話はそういうものが多いんだと思う。
(⇒⇒⇒「こびとさん」(2010-06-14))
(⇒⇒⇒「あなたの中の虫」(2010-07-02))
Inceptionのクリストファー・ノーラン監督は、バットマンシリーズの「ダークナイト」という傑作も作っている。
その「ダークナイト」でも、まさに光と影の統合(融合)というテーマ性を感じたものだ。
(ブログで1年前に書いた感想⇒⇒⇒「ダークナイト(映画)」(2009-05-20))
宮崎駿さんの「風の谷のナウシカ」(漫画版)も、ナウシカの中にある光と影の統合の物語でもある。
その時に現れる「虚無」や「無力感」との闘い。
深い「たましい」の物語になると、避けては通れないテーマなんだろう。
(ブログで半年前に書いた感想⇒⇒⇒「風の谷のナウシカ」(2010-02-23))
■虚無
虚無って言葉は、なんとなくインパクトが強い。
「虚ろ」で、しかも「無い」ってとどめを指す漢字だし。
映画の設定では、夢の中で死ぬと夢から目覚める事になるけど、深い昏睡状態で見る夢の中だと、そこで死ぬと「虚無Limbo」に落ちて起きる事ができないとされてた。
字幕で「虚無」と流れた時、英語では「Limbo」と言ってたようだ。
Limbusは周辺・端を意味するラテン語で、地獄の「周辺部」の意味。
Limbo(辺獄)という概念は、三位一体と同じで聖書に登場するものではなくて、ローマ・カトリック教会の公式教義ではない。
ただ、「Limbo(辺獄)」の意味としては、キリスト教で洗礼を受けていない死者が行く、地獄と天国の間の場所。魂が行き場をなくしてうろついている場所のことを言う。
魂が救われないLimboの場所を、字幕では「虚無」としていた。
それもあって、人間の深い深い場所にある魂を救う映画なのだと思った。
■夢と現実(Reality)
『インセプション』を見てから、小学生の時を思い出した。
それは、「人は死んだらどこに行くのか」ということ。
実は、小学生のとき友達とぎりぎりまで考えた事があって(そういうよくわかんない話ばっかりしてた)、途中で頭がおかしくなりそうになったから考えるのやめてたんです。
当時はまだそれを引き受ける自分の「器」ができてなかったんだと思う。
・・・・・・・・
(仮説)
・・・・・・・・
夢は、実は入れ子構造になっていて、人は死んだら誰かの夢に入っていくんじゃないかと仮説をたてた。
だから、夢の中には死んだ人もよくわかんない人もいっぱい出てくるし、時間も空間もない。
(1年くらい前にもこういう変なことブログで書いたなぁ⇒⇒⇒「寝ること」(2009-06-25))
夢の体験はせいぜい5分くらいに思って起きるけど、実は夢の中の実体験としては80年くらいの人生をみんなが生きている。
その80年の人生を、いろんな人が5分くらいずつに夢を断片的に細切れに、分担して見ている。
夢の中の夢、そのまた夢・・・どんどんと、無限に入れ子構造になってる。
もちろん、この現実自体も、誰かの巨大な夢の中にある。
(そうなってくると、「夢」の定義次第って話もあるけど)
そこで湧くのが「じゃあどこが現実なの、Realな世界なの?」っていう疑問。
自分が小学生の時は、ここで怖くなって考えるのをやめてgive upした。
この世界が夢ならば、何やっても許されるじゃないかって思って、なんか怖くなった。
でも、自分も成長して、いろんなものを受け入れる「器」ができてきたのか、なんとなく自分の中で腑に落ちて説明できる気がした。
(もちろん。この話は全て仮定の上で話が進んでますのであしからず。)
■引き受けること
Realityとか現実っていうものは、まさしく自分がどこで線を引くかの問題なのだと思う。
そして、自分が一度線を引いて決めたら、それを全うしないといけない。
そのラインを引くということは、この生を引き受けるということ。
辛かろうが苦しかろうが、全てを引き受けるということ。
それがまさしく「生きる」ってことなんじゃないかと思う。
『この回っているコマがいづれ止まる世界』を現実だと決めるのは、他の誰でもない自分。
そして、そう決めたら、それこそが現実の世界の「はじまり」なのだということ。
そして、その決めた現実を、「生きると決める」ことが、「生」というものだということ。
・・・・・・・・・
テレビで自殺の話が出てくると、キレイ事ばかりをよく聞く。
安いヒューマニズムでは何も生まれない。
命が大事だ。なんて、そんなの言われなくてもわかってる。
自殺した人も、それはわかってる。
ほんとに僕らが指摘しないといけないのは、
この世に、自分で選択して生まれてくる事は絶対にできないということ。
この世界に投げ出されるように、絶対的な受け身の状態で生まれてくるということ。
そして、誰でもいつでもどこでも死ぬ自由があって、そんな不安定な世界で実は生かされてるってこと。
そういう前提こそが、自殺をどう考えるかの議論で大事なことなのだと思う。
だからこそ、人はどこかで自分が背負うものを全て引き受けて、生きる決意をしなければいけない。
この世には楽しい事や嬉しい事ばかりではないかもしれない。
戦争もあれば殺し合いも憎しみ合いもある。
そんな苦しみも哀しみも不幸も、そんなネガティブなものであっても、この世界の全てを了解して、引き受けて、「生きる」決意をしないといけない。
そのラインが、Ralityであり現実なんだと思う。
そこを基準にして、夢とか、夢の夢とか、夢の夢の夢の・・・っていう構造の基本設計ができる。
・・・・・・・・
夢や現実。
現実(Reality)は、自分が、自分で、決める。
そういう、自分が生を引き受ける覚悟のことを言うんじゃないかと思う。
そして、一度引き受けたら、この生を全うしないといけない。
自殺は、この映画示すように夢の中を永遠に落ち続けて虚無の世界へと吸い込まれていく。
そこは無間地獄のような場所で、「たましい」はどこにもいけない。
だからこそ、空想に逃げこまずこの現実に向かわないといけない。
同時に、この現実だけに埋没せず、豊かなイメージやファンタジーや空想と夢の世界も引き受けて、生きていく必要がある。
そんな入れ子構造の世界を、全部ありのまま引き受けること。
その決意が、生きることなんだと思う。
■ピアフ「水に流して」
この映画では、夢と現実の境界線を示すために、エディット・ピアフ「水に流して」の音楽が流れる。
その音楽を聴く事が、「夢」から「現実」に戻るサインだ。
エディット・ピアフはフランスのシャンソン歌手(1915~1963年)。
以前、ピアフの生涯を描いた映画の感想も、ブログに書いたことある。
(⇒⇒⇒⇒「エディット・ピアフ」(2008-10-15))
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エディット・ピアフ「水に流して」
Édith Piaf「Non, je ne regrette rien」
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Non, rien de rien
Non, je ne regrette rien
Ni le bien qu'on m'a fait
Ni le mal Tout ca m'est bien egal
Non, rien de rien
Non,je ne regrette rien
C'est paye, balaye oublie
Je me fous du passe
Avec mes souvenirs
J'ai allume le feu
Mes chagrins, mes plaisirs
Je n' ai plus besoin d'eux
Balaye mes amours
Avec leurs tremolos
Balaye pour toujours
Je repars a zero
Car ma vie, car mes joies
Aujourd' hui, ca commence avec toi.....
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いいえ。
私は何も後悔していない
私が人にした良いことも、悪いことも
何もかも、私にとってはどうでもいいこと
私は何も後悔していない
私は代償を払った、清算した、そして忘れた
過去なんて、もうどうでもいい
私は多くの過去を束にして
火をつけて焼き去ってしまった
私の味わった苦しみも、喜びも
今となっては必要がなくなった
私は過去の恋を清算した
トレモロで歌う恋を、清算した
永遠に清算してしまった
私はまた、ゼロから出発する
私の人生はすべて、喜びも
今は、あなたと共に始まる……
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■「はじまり」
映画「inception」は、夢(無意識)が何層にも多層構造をしている世界を描いていて、すごく不思議で、すごく深い場所まで誘われる映画。
この映画では、人間の深い深い内界で起きる「たましい」の救いのようなものを感じた。
そして、映画に出てくるような夢の住人達は、「わたし」の「たましい」を守るため、日々戦っているのだと思う。
inceptionは「はじまり」って意味もある。
エディット・ピアフの「水に流して」の終わりが「はじまり」として歌われているように、その人の「たましい」が救われて初めて、その人の現実は「はじまる」し、人生そのものが「はじまる」んだろう。
成長とは、光と影を統合していくことの積み重ねだと思う。
光と影を統合させて、人は自分の「器」を作る。
大きい器を作ることで、いろんなものをこぼさずに、いろんなものを肯定して生きていく事ができる。
それが成長ってことだと思う。
それは、「たましい」に直結する、人生を引き受けて生きていく上で、すごく大事なことなんだろうとも思うのです。
(またしても長大になってしまいすみません。
全部読んでくれたとしたら、ほんとありがとうございます。笑)
「人は死んだらどこに行くのか」というタイトルの本を最近読んだのですが、inceptionの世界観に近いものを感じました。
人間の意識の世界。
あの映画を突拍子もない発想と思わずに受け入れることができる人には、この本は面白いかもしれません。
生と死を越えた人間の意識の世界。
どちらが現実なのか。
自分やこの世界の存在について、新たな視点を与えてくれるものでしたね。
はじめまして。
いろいろ思うことがあって面白かったので、調子に乗っていろいろ感じたこと書いてたら長くなりました。
ほんとは、終わりのいろんな解釈を数通り考えたんで書こうかともおもったんですけど、書いちゃうとネタばれしそうでやめました。
映画とかの感想って、その辺がいつもむずかしい。面白いから観てほしい!っていうのと、それでいて観た時の新鮮な驚きを損ないたくないなってのもありますし。
「人は死んだらどこに行くのか」って本、そのものずばりなタイトルですが、確かにおもしろそうですね。
死後の話とかも、立花隆の『臨死体験』みたいな中立の立場の人も面白いですが、極端な考えの人も面白くて好きです。だいたいにして中途半端な人が多くて、それはつまらない。どっちかにつきぬけてる方が面白い。
映画Inceptionも、現実とか、Realとか、夢とか、人間の意識とか・・・そういう哲学的な問いを、映像で分かりやすく作っていましたよね。SF設定で映像もすごいし、純粋に映像を楽しめる。
それでいて内容も深いから、スルメのように噛めば噛むほど味がでる感じ。
また2回目で観たいと久々思う映画でした。
最近はおもしろい映画によくあたってる気がします。
夢とは言っても私たちが普段見る夢ではなくて、意図的に設計してそこに標的の人を引きずり込むという、とんでもない能力でしたね。
しかしどんな夢を作っても、主人公の過去が必ず邪魔をする。それは他人の潜在意識に侵入し操るという、許されざる仕事への報いなのでしょう。
しかし、ディカプリオはこの前観た『シャッターアイランド』という映画でも似たような設定だったので、アメリカ人も最近はこのような暗い話を受け入れるようになったのかと思いました。
それから、途中から押井監督の『イノセンス』を観ているかのような気分になりました。映像と音楽の使い方が似ています。また、無機質な夢の世界は『マトリックス』を思い出しました。
超現実的な設定なので矛盾点を挙げればキリがないのですが、ひとつ言えば、ディカプリオはなぜ奥さんのあのアイデアを取り除かなかったのか?それから、ロバートへのインセプションは正当化したまま終わったので、こいつらはまたやるのではないかと思いました。
《ほんとは、終わりのいろんな解釈を数通り考えたんで書こうかともおもったんですけど、書いちゃうとネタばれしそうでやめました。》
これは気になります。もうネタバレしてもいい頃なのでは?私としては素直にあれが「現実」と受け止めました。まあ、観ていながら楽屋オチの可能性も考えたのですが。最後に「カット!撮影終了!」みたいな。いずれにせよ、私たちの「現実」も誰かの夢、または夢の夢の夢…かもしれないと思わせてくれる映画でしたね。まあ、既に『荘子』の『胡蝶の夢』で言われていることではありますが。
もうだいぶ記憶が薄れかけていますが、この映画を見た直後は頭の中がグワングワンしてかなりの衝撃をうけたのをよく覚えてます。
『しかしどんな夢を作っても、主人公の過去が必ず邪魔をする。』
そうなんですよね。
その人の無意識の場所には、その人すらも意識できない過去の記憶の集合体のようなものがあって、その記憶の全体が、ある均衡をはかるために動き出すんですよね。
ユングがいうところの、広大な無意識は意識を補償してバランスをとる働きがあるっていうのがすごく好きで、この映画のように外部からある意図をもって侵入してくるものに対しても、無意識は全体性のバランスをとるために働いていると思うと、なんだか不思議な気がしますね。自分があずかりしらないところで勝手にいろんなことが起こっているっていうことが。
でも、それは人体の自然免疫も同じようなアナロジーで、僕らは絶えず病原菌の感染にさらされているのですが、弱毒菌は知らないうちに自然治癒しているんですよね。高熱が出たり、病院に入院したりっていうのは、氷山の一角であって。
同じようなアナロジーを、この夢や無意識の世界から感じました。
終わりのいろんな解釈ですね。
もうだいぶ忘れてしまったんですが、何パターンも考えれると思ったんですね。
たとえば、最後のコマが倒れるかどうかのシーン。
<現実だと回るコマは止まる。現実ではない世界だとコマは回り続ける。>
これが現実と非現実を見分けるキーワードでしたっけ?(うろ覚え)
僕は、コマが倒れるかどうか、それすら、自分が思うようになるのではないかとも思ったんですよね。
たとえば、明晰夢のような状態(夢の中である程度自分の意思を介在できる状態。創作の深い段階はこれに近い場合もあると言われています)。
もし夢の中である程度意思が働くならば、その中で、コマが止まるようにも、止まらないようにもできるわけです。
もし、コマが止まるように夢の中で願い、そのように夢が展開したならば、定義上はそれが現実ということになります。
つまり、夢の中がその人の現実であって、僕らが言うところの夢は、その夢の中で見る夢になるわけですよね。
ということは、そこで認識レベルが一段階落ちることになります。
僕らが見る夢。それを現実と「決めた」場合は。そこが現実になるわけで。
この論法が通じるのならば、それはまさしくこうして呼吸している僕らの現実は、誰かの夢の中であっても矛盾しないことになります。
認識レベルを逆に一個あげた状態です。
この世界には60億近くの人間が住んでいる。原理上は、それぞれどの認識レベルもとれますよね。この世界を現実ととるか、この世界を誰かの夢の中とるか。
そうなると、60億人は60億それぞれのパターンを選ぶ自由があるわけですから。
文字で書くとなんか異様な文章になってきますが、僕は『認識論』?のようなジャンルがあるとすれば(現象学とかに近い?)、そういう哲学的な問題に近いなと思いました。
それぞれの人が、「これが現実である」と自分の意思で決めなければいけなくて、それがまさしく現実になるということでしょうか。
この論法を使えば、いろんな解釈ができると思うんですよねー。入れ子構造になっているから、ある階層で一つの仮定をすると、他の階層にもどんどんその仮定が影響を及ぼしていくっていう感じで。
これは、死後の世界をどうとらえていくかということとも近いのかもしれません。
ちなみに、それは村上春樹さんの1Q84を読んだ時も同じような印象を受けたのです。
あの世界では、月が1個あるか、2個あるか、そこが判断の基準だったわけですが。
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「イッツ・オンリー・ア・ペーパー・ムーン」の歌詞
「ここは見世物の世界 何から何までつくりもの でも私を信じてくれたなら すべてが本物になる」
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そんな感じで、もう一回見てみたいなーって改めて思いました。
夢とか無意識の世界を、ここまで素晴らしく巧みな映像で表現したのは本当にすごいですよねー。
映画史の歴史に残る名作と言われることになるんだと思ってます。