日常

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舞台版「海辺のカフカ」

2012-05-04 11:59:17 | 芸術

『海辺のカフカ』より
「ある場合には運命っていうのは、絶えまなく進行方向を変える局地的な砂嵐に似ている。
君はそれを避けようと足どりを変える。そうすると、嵐も君にあわせるように足どりを変える。
君はもう一度足どりを変える。すると嵐もまた同じように足どりを変える。
何度でも何度でも。まるで夜明け前に死神と踊る不吉なダンスみたいに、それが繰り返される。

なぜかといえば、その嵐はどこか遠くからやってきた無関係ななにかじゃないからだ。
そいつはつまり、君自身のことなんだ。
君の中にあるなにかなんだ。
だから君にできることといえば、あきらめてその嵐の中にまっすぐ足を踏み入れ、砂が入らないように目と耳をしっかりふさぎ、一歩一歩とおり抜けていくことだけだ。

そこはおそらく太陽もなく月もなく、方向もなく、あるばあいにはまっとうな時間さえない。
そこには骨をくだいたような白く細かい砂が空高く舞っているだけだ。そういう砂嵐を想像するんだ。」




舞台版の「海辺のカフカ」初演を見に行きました。彩の国さいたま芸術劇場
蜷川さん演出ですが、脚本はフランク・ギャラティという別の方です。

総合的な感想。とてもよかった。
きっと、蜷川さんが春樹さんの作品をよく読見込んでいるからだとも思う。
春樹作品の深さや広さが感じられた。
ストーリーは原作に忠実を旨として、舞台は進行した。
舞台の台詞も、原作から一語一語間違いなく丁寧に再現されていた。
それも自分は好きだった。

くもりない鏡。
鏡は実像を反射する。反射光は、鏡を境に屈折した虚像を映すけれど、鏡のくもりがなければ実像と虚像は光源の場所が異なるだけに過ぎない。


春樹さんの作品は、簡単に感想を書くのを阻むような、総合的で立体的な世界観がある。
ある部分の良さを語ると、語らなかった部分の文章が「やあやあ、自分も語ってくれ」こちらにと語りかけてくる。そこを語ると、また別の語られなかった部分が「おいおい。こちらも語ってくれ」と、再度語りかけれくるように。
「全体」を「部分」として次元を落として表現できない全体的な世界が、そこにはある。


春樹さんの作品には、メタファーやシンボリックな言葉が常に行きかう。
誠実な読者は、そのメタファーで「イメージ」を喚起される。僕らが「言語」を獲得する前の故郷の匂いさえ、思い出される。

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大島さん
「世界はメタファーだ、田村カフカくん」
「でもね、僕にとっても君にとっても、この図書館だけはなんのメタファーでもない。
この図書館はどこまで行っても --この図書館だ。
僕と君のあいだで、それだけははっきりしておきたい」
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春樹さんの言葉は、日常的な言語世界の中で表面的に聞き取ることもできるけれど、たいていそこは二重底(時には無限に反響する底)になっている。
たとえば、「性」が示すのは肉体的な交わりだけではない。「男性的なものと女性的なものの融合、一体化、変容と変質」「まじわること」「つながること」「異質なものが交差すること」「異なる魂が結ばれること(結魂)」・・・・複雑な要素が多重反響的に含まれている。そのこだまこそ、内部にある耳を澄まして聞くべき「声」だと思う。
みみをすます。


人間はないものを求める。「ない」が「ある」に転ずるように。
欠落や喪失を埋め合わせようとして、人間は生きている。
その欠落は、時に「意味」というものとして埋め合わせようとする。
そうして、<生きている>という状態が、<生きる>という運動へと転じていく。<静>が<動>になる。

その欠落を埋める行為はまた別の形で欠落や喪失を産み出すから、蝶を追っても蝶は逃げ続けるように、延々と続く。おわりははじまりにになり、はじまりはおわりになる。
そして、つかまえたと思った蝶を鳥かごの中に入れ続けてしまうと、たいてい死んでしまう。


蝶が羽ばたく道は「蝶道」と呼ばれる。人間には分からず蝶にしか分からない「通路」や「道」がある。
人間には理解できない次元の扉がある。
それは互いの存在にとっても同じようなものが存在している。

蝶は、人間が原子力発電を作ったり石油や石炭を燃やして何のためにエネルギーを作りつづけているのかよくわからないし、なぜ「お金」という紙きれが動いたり止まったりしていることに狂喜乱舞しているのか、さっぱりわからないだろう。

蝶は蝶の人生があり、猫には猫の人生がある。
蝶は蝶の道があり、猫には猫の道がある。

人間の「こころ」や「Spirit」には別の次元の存在形態や生活様式(life style)がある。そこはそこなりのやり方で、独自の法則で動いていて、そここそが様々な次元が交差する「道」や「通路」だ。

多重であり多元である世界。
僕らの見える世界だけでも、人間、猫、蝶、バクテリア、ウイルス、山、石、水・・・一生かけても数え切れない無限の存在がいるし、見えない世界を入れはじめると、多重世界という言葉は不適切かもしれない。無限世界でもいい。ただ、便宜的に多重世界と呼ぶことにする。
そんな多重世界は、互いが互いを成立させるような交錯する場所が存在している。

交差したところでは、それぞれの時間やそれぞれの空間が少しねじれる。

たとえば、人間が生まれる時、死ぬとき。何かがねじれる。どこからかやって来て、どこかへとやってゆく。
僕らが愛するとき、離れるとき、笑うとき、失うとき、喜ぶとき、怒るとき。そんな感情も外側のきっかけから、どこか遥か内側からやって来て、はるか内側へと還ってゆく。
そこは、目をあけると見えないけれど、むしろ目をつぶると見えるように感じられるときがある。外の目と内の目。


そんな外と内、東と西、北と南、天と地、陰と陽がまじりあう複合的で交差的な場所では、僕らは「眠り」と「覚醒」の中間状態へといざなわれる。


「眠り」と「覚醒」。
「眠り」の中では、内なる世界は均衡や統合を求め内的世界はうごめいている。僕らは「イメージ」として感ずる。
「覚醒」の中では、「時間」や「空間」の秩序だった世界の中で、外的世界は万物が流転しながら動いている。その万物の中のひとつとして、自分も、在る。 
「外的世界」では、「眠り」でつかんだ「内的世界」を「外的世界」に投影しながら、多重世界の糸を織りなす。その複雑な糸の構造物を「イメージ」で共有している。



・・・・・
舞台は、「覚醒」したままで見る「イメージ」に似ている。
それは文学と根本的なスタイルで似ているけれど、体験スタイルとしては大きく異なっている。


そこは「眠り」と「覚醒」を「つなぐ」ものであり、その中間状態に存在するもの。
そうして、僕らの「眠り」と「覚醒」ははじめてつながる。リンクする。


本を読む。文字を追いながら内的世界で動く「イメージ」。
その「内的なイメージ」を、舞台という外的世界に投影された「外的なイメージ」として共有して見るのはなかなかいい体験だった。またそれは内的世界を参照するイメージとなる。

村上春樹作品を、またあらためて全部読みなおそうと思った。

舞台を見ている間は、明晰で覚醒しながら「夢」を見ているようだった。
それはきっと、芸能の起源でもあると思う。
それはきっと、人間が生み出した「治癒」のひとつの形であるとも、思う。



・・・・・・

舞台初日。大雨の中、行われた。
18時30分から22時30分という長い時間、複数の人間と長い夢を観た。
外に出ると、雨はあがっていた。

「海辺のカフカ」の最後と同じだ、と思った。いろいろなものは、相互に呼応している。コトバは現実をつくり、現実はコトバにこたえる。「やあやあ」、と。
雨や嵐は向こうからやってくる。受け入れる。待つ。無限のように感じられる「とき」を感じる。待つ。待つ。いづれ通り過ぎていく。その後、自分の組成が少しだけ変わっている。




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『海辺のカフカ』より
ジョニーウォーカー
「それも決まりなんだ。目を閉じちゃいけない。目を閉じても、ものごとはちっとも良くならない。
目を閉じて何かが消えるわけじゃないんだ。それどころか、次に目を開けたときにはものごとはもっと悪くなっている。
私たちはそういう世界に住んでいるんだよ、ナカタさん。
しっかりと目を開けるんだ。目を閉じるのは弱虫のやることだ。現実から目をそらすのは卑怯もののやることだ。
君が目を閉じ、耳をふさいでいるあいだにも時は刻まれているんだ。コツコツと」
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大島さん
「田村カフカくん、僕らの人生にはもう後戻りができないというポイントがある。
それからケースとしてはずっと少ないけれど、もうこれから先には進めないというポイントがある。
そういうポイントが来たら、良いことであれ悪いことであれ、僕らはただ黙ってそれを受け入れるしかない。
僕らはそんなふうに生きているんだ」
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大島さん
「「僕らはみんな、いろんな大事なものを失いつづける」、ベルが鳴りやんだあとで彼が言う。
大事な機会や可能性や、取りかえしのつかない感情。それが生きることのひとつの意味だ。
でも、僕らの頭の中には、たぶん頭の中だと思うんだけど、そういうものを記憶としてとどめておくための小さな部屋がある。
きっとこの図書館の書架みたいな部屋だろう。
そして僕らは自分の心の正確なありかを知るために、その部屋のための検索カードをつくりつづけなくてはならない。」
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女の子
「『純粋な現在とは、未来を喰っていく過去の捉えがたい進行である。実を言えば、あらゆる知覚とはすでに記憶なのだ。』
 アンリ・ベルグソンの『物質と記憶』、読んだことないの?」
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女の子
「ヘーゲルは<自己認識>というものを規定し、
人間はただ単に自己と客体を離ればなれに認識するだけでなく、
媒介としての客体に自己を投射することによって、
行為的に自己をより深く理解できることができると考えたの。
それが自己意識。」
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ナカタさん
「空っぽということは、空き家と同じなのです。
鍵がかかっていない空き家と同じなのです。
入るつもりになれば、なんだって誰だって、自由にそこに入ってこられます。
ナカタはそれがとても恐ろしいのです。」
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大島さん
「世の中のほとんどの人は自由なんて求めてはいないんだ。
求めていると思いこんでいるだけだ。すべては幻想だ。
もしほんとうに自由を与えられたりしたら、たいていの人間は困り果ててしまうよ。
覚えておくといい。人々はじっさいには不自由が好きなんだ。」
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大島さん
「ジャン・ジャック・ルソーは人類が柵をつくるようになったときに文明が生まれたと定義している。
まさに慧眼というべきだね。
そのとおり、すべての文明は柵で仕切られた不自由さの産物なんだ。」
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佐伯さん
「あなたに私のことを覚えていてほしいの。
あなたさえ私のことを覚えていてくれれば、ほかのすべての人に忘れられたってかまわない。」
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