うさとmother-pearl

目指せ道楽三昧高等遊民的日常

それとこれとは

2021年08月07日 | ことばを巡る色色
区別すべきではないかと思うものがいくつかある。一緒くたにしていいのか、それとこれとは話は別でしょ、むしろ、論点のすり替えとなってしまうよ、それとも揚げ足取りをしたいの? と思うもの。

このオリンピック、本当にやれるのだろうかと思った。世の中にもそう思った人はたくさんいた。「安全安心」とやらを担保しながら、外国から選手なり、観客なり、関係者なりを受け入れることなんてできるのか、と思ったから、多くの人は開催に好意的ではなかった。反対であったともいえる。でも、それはオリンピックをやりたくないからでも、日本に来てほしくないからでも、この期に及んでスポーツやるなんておかしいと思っているわけでもないはずだ。穏やかな気持ちで、手放しで応援しながら開催したいという気持であったのだ。
結局、ご存知のようにオリンピックは開催されることになり、「あれだけ反対してたのに、結局楽しんでみてるじゃないか」という意見がある。
それとこれとは別ですよ。やるとなってしまったからには、その途中で反対したって意味はないでしょ。やってるものは当然観るし、楽しんで観たからと言って、安全性なりに危惧がなくなったわけではない。やったらやったで掌返し、でもない。決定を受け入れたに過ぎない。
(世界の何十億人に対して『日本の力を試せる場を残そう』『日本人の忍耐力を示してもらおう』)という意見に賛同したわけではないし、(五輪に対してIOCが取ったアプローチが正しかった)と思ったわけでもない。それとこれとは話は別である。

この流行病の中、様々な制限がかけられる中、スポーツやイベント等が開催されると、「子どもは運動会も修学旅行も我慢しているのに」という意見をいくつか見る。確かに、子どもの貴重な体験の場が中止されることは辛いことだ。だが、すべての人が制限を受ける中でも、できることは対策をしながら少しずつしていかねばならない。何も子どもだけが制限されているわけではなく、子どもを盾に、自分の意見を言う、それとこれとは話が別じゃないの、と思う。

いろいろな制約の中、はじめのうちは「風邪のようなもの」「経済活動は少しずつでもしなければ」という意見の人が、その後にワクチン接種をすると、安易な転向者のように非難する人が多い。未知のウィルスの前には皆、手探りであり、その時々で得られる情報の中で、日々判断するしかない。それは裏切りでも転向でも日和見でもない。それぞれの判断はそれぞれの思惑の下にされているのだから、批判は揚げ足取りだと思う。

「ワクチンを打て」だの、「打つな」だのの呼びかけ。少なくとも自由意思に任されていることについて他者に呼び掛けることに意味はあるのだろうか。各々が判断して決めればいいことだ。行政はその判断のために詳細で最新の情報を提供し続ける責務はある。ワクチンについて、情報提供を国に呼び掛ける人はほとんどいないのに、感情的に接種の賛成/反対を呼び掛けている人々。それは、また別の問題でしょ?
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