うさとmother-pearl

目指せ道楽三昧高等遊民的日常

はじめての雪(2)

2005年05月26日 | 語る!
はじめての雪(1)の続きです。

こうして、どんなお願いをされても、私はその度ごとに戸惑いながら、応えることになった。私がかなえた母のお願いは、いったい誰の希望がかなったこととして、母の記憶の中に残されていくのだろう。母は、一緒に寝て欲しいという望みを自分が持ったことをわかっているのだろうか。その望みを子である私に訴えたことを、記憶しているのだろうか。私がそれに従ったことは、どんな形となって、母の中にいるのだろうか。
 母が告げた雪の約束など、すっかり忘れてしまっていた火曜日のことである。「みっちゃん、今日は秋刀魚の大廉売だから、スーパーで買ってきてね。一緒に食べましょ。」との「ご託宣」があった。新聞を読まぬ母に、秋刀魚の値段などわかるはずはないし、「大廉売」という言葉も時代めいて可笑しい。だが私は、たとえ今日の秋刀魚がいくらで売っていようが、「お母さんの言うとおり、秋刀魚が大廉売だったわ。」というのだろう。
ここしばらくの習慣の通り、出かける前に玄関に鍵をかけた。いつだか、買い物に出た私を、「今日は、白い服でないと大変なことが起こるのよ。」と母が泣きながら追いかけてきたことがあった。裸足で髪を乱して走る姿に、私はすぐさま家に引き返し、「大丈夫、大丈夫よ。」と母をなだめた。そのような出来事が二、三度続いて以来、外出する時には鍵をかけるようになった。鍵の解除さえすれば中からも開けられるのに、不思議と母は、鍵を開けて追いかけてくることはなかった。近所の好奇の目を恐れずにすむようにはなったが、それに伴って、母の外出もめっきり減ってしまった。外に出ぬ人の居る家は、部屋の空気まで重く湿って、ぬるい。家から店までの五分の間、湿った表皮をはぐような清い北風の中を歩いた。それは、つかの間の正常な空気であり、歩くごとに身が軽くなるようであった。

その日の目玉商品は秋刀魚だった。鮮魚コーナーの前には、ゴム長の店員が、秋刀魚のパック詰めをワゴンに山積みにして、「秋刀魚、大廉売です。」と叫んでいる。奇妙な符牒が私の心の中に沈んでいった。
あれは急に冷え込んだ水曜日の朝だった。私は何ヶ月か前の母の言葉を夢の中で聞きながら目覚めた。
「今日は、柳のおねぇちゃんがくる気がする。」と母は確かに、あの時言った。「柳のおねぇちゃん」は、母のいとこである。その日の夕方、「りんごをいただいたから」と、柳のおねぇちゃんはやって来た。しかし、「気がする」という言葉を、単なる偶然と思った私は気にも留めなかった。そのころの母はまだ、「ご託宣」をしてはいなかった。じっと考え込む日が増え、話し掛けても聞いていないことが多くなり始めた頃であった。
 私はこの数ヶ月の母の言葉を残らず思い出そうとした。本気で聞くと腹が立ったり、情けなくなったり、寂しかったりしたので、忘れてしまおうと思っていた言葉を、一つ一つ頭の隅の方から出してきた。「気がする」といったもの、そして「ご託宣」。その両方に、本当になったことがいくつかあった。それらは、どれも些細なことで、偶然と言えてしまうものばかりだった。むしろ、私にお願いをするためにした母のこじつけではないか、と疑うものの方が多かったかもしれない。流しにごみが詰まっていること、夜に電話がかかってくること、夏風邪をひくこと。腕時計が止まっていると言い出したこともあった。その日の朝、時計が止まっているのに気づいてはいたが、古い手巻きの時計なので、その言葉にぎょっとしながらも、その言葉をやり過ごそうしていたのだ。

はじめての雪(3)に続きます。
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6 コメント

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ナチュラル・トリップ (猫わん)
2005-05-27 09:45:13
母娘の密着した関係というのは我々男性には、それだけでも神秘です。みっちゃんの母さんはボケているのか、それとも、予知能力者なのか、完結編が待ち遠しいです。

2話までを読んで思い出したのは、スマトラ沖災害の復興における不思議なエピソードです。野生動物の死骸がほとんど見つからないという。第六感というのは本来、動物には当たり前に備わっているものなのかもしれません。それを僕ら現代人は封じ込めてしまっている。

極々ドメスティックな母娘の生活と、文明とか野生とかいうイメージが頭の中でリンクして、ナチュラル・トリップしたような不思議な感覚に包まれています。3話がどうなるのか、怖いような気もしますが、わくわくしています。
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早く第3話を・・・ (あきちゃん)
2005-05-27 10:16:55
うさとさん素晴らしいですね。文才の無い私からしたら素晴らしいとしか言いようがないです。

猫わんさんと同じくこのお母さんはただボケてるのか予知できるのか、どっちなんだろうって思ってました。結末が気になりますねぇ。
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結末を読みたくない。。。 (よっちゃん)
2005-05-27 17:46:33
最近はほとんど小説を読まなくなりましたが、昔サラリーマン読本とでも言いましょうか、源氏ケイタ(字を忘れちゃった)とか何がしとか無差別に読み漁っていた時期がありまして、その時に感じたドキドキ感がこの短い文章読んで走馬灯のようによみがえってしまいました。なんとなく結末を読むのが怖いというか、むなしくなりそうな気がしてならないのは私だけでしょうか!!
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猫わんさんへ (うさと)
2005-05-28 01:08:55
忘れずにお越しいただきありがとうございます。ナチュラルトリップ。そんな風に感じていただけたなんて本当にうれしいです。普通でありながら、不思議なことって日常の中にはいっぱいあるんではないかと思います。見っチャンのお母さんの状況もいろいろに考えていただければ、幸いです。最終編もアップしました。結末はいかがでしょうか。
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あきちゃんへ (うさと)
2005-05-28 01:10:44
あきちゃん、お読みいただきありがとうございます。あきちゃんの文才はブログで証明済みだと思います。結末はいかがだったでしょうか。あきちゃんは、お母さんをどんな人だと思ってくださいましたか?
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よっちゃんへ (うさと)
2005-05-28 01:13:07
結末をアップいたしました。怖かったでしょうか。むなしかったでしょうか。でも、とにかく読んでくださる人が居るということ、すぐにコメントを付けてくださるということを、幸せに思っております。また、コメントください。
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