幾らか前から、「下流」ということが言われるようになった。そうして、「そうだ、そうだ、下流の人が増えているんだ」と世の人々は賛同した。時流にのったということは、多くの人がそう思っているからだろう。有史以来、「上流」の人がいれば「下流」の人もいた。それは否定の出来ない事実である。それは、出自だったり、知識だったり、財力だったり職業だったりで作られるのだけれど、何らかの形で上下が出来てしまっているのは誰がなんと叫ぼうが事実なのだ。しかし、今問題なのは、それが決定事項のように感じられてしまっていることだ。「下」であれば、何の可能性もないように考えられ、そうして自らを「下」にあると考える人が、そう考えてしまっていることだ。いつの日からか、努力などしても、所詮は報われず、面倒に過ぎないと思う人が増えている。「下」でいるほうが、辛い努力などせずともすむし、職や住居や身分が不安定でも、その日の楽しみだけを考え生きていくほうが楽ジャンと思う人が多くなってはいないか。
生まれつきの才、というのはどこまでその後の環境で変更が可能なのだろうかと、私はよく考える。十代後半にもなってしまうと、ある意味での「上」「下」が出来上がってしまっていることが多い。「上」の人は自らの知識、意識と他者の相違をすり合わせながら、他者が語る内容をなるべく他者の思いのまま理解しようと努める。それに対して「下」の人は、自らの基準、能力の中でしか理解が出来ない。ゆえに多くの誤解や錯覚が起こり、意思の疎通がはかれないことが多い。そのような低理解の中で不幸は起こりやすい。もちろん、「上」と思われている人が引き起こす犯罪もある。しかし、可能性を考えようとしない人々の不幸は周りを巻き込みながら拡散する。
私は、誰でも理解する力を持つ可能性があると思う。それはいろいろな方法でなされるだろう。学校の勉強の中でつけられると考えられがちだが、それは方法の一つに過ぎない。ある技術を会得する中だったり、スポーツをする中だったり、植物を育てる中だったりするだろう。そんなさまざまな場面の中で、人は「わかろうとする」力をつけていくはずである。「わかろうとする」過程に「上」も「下」もないはずだ。どこにいようと人は、自らの立ち位置から世界を理解しようとするもののはずだった。
それなのに、今「下流」が歯止めなく進んでいるのはなぜだろうか。私たちが、そうして私が失ったものはなんだろう。皆楽しそうに、楽そうに暮らしているのに、この国の中に漂う空虚感はなんだろう。そう、「空虚」な感じ。そう感じているのは私だけなのか、あなたたちは、そう感じてはいないのか。
それは例えば、狭い鶏舎で育てられた鶏肉の味気ない感じにも似ている。肉ではあるが地や陽の恵みからは縁遠い感じ。今の世の中をそのように憂う私がおかしいのだろうか。
今まで人を律してきたものはなんだったのだろう。なぜ、人は自らを律するものをなくしてしまったのだろうか。
これは私の問題でもある。そうして私は「考え中」の札を立てたまま、立ち尽くしている。
生まれつきの才、というのはどこまでその後の環境で変更が可能なのだろうかと、私はよく考える。十代後半にもなってしまうと、ある意味での「上」「下」が出来上がってしまっていることが多い。「上」の人は自らの知識、意識と他者の相違をすり合わせながら、他者が語る内容をなるべく他者の思いのまま理解しようと努める。それに対して「下」の人は、自らの基準、能力の中でしか理解が出来ない。ゆえに多くの誤解や錯覚が起こり、意思の疎通がはかれないことが多い。そのような低理解の中で不幸は起こりやすい。もちろん、「上」と思われている人が引き起こす犯罪もある。しかし、可能性を考えようとしない人々の不幸は周りを巻き込みながら拡散する。
私は、誰でも理解する力を持つ可能性があると思う。それはいろいろな方法でなされるだろう。学校の勉強の中でつけられると考えられがちだが、それは方法の一つに過ぎない。ある技術を会得する中だったり、スポーツをする中だったり、植物を育てる中だったりするだろう。そんなさまざまな場面の中で、人は「わかろうとする」力をつけていくはずである。「わかろうとする」過程に「上」も「下」もないはずだ。どこにいようと人は、自らの立ち位置から世界を理解しようとするもののはずだった。
それなのに、今「下流」が歯止めなく進んでいるのはなぜだろうか。私たちが、そうして私が失ったものはなんだろう。皆楽しそうに、楽そうに暮らしているのに、この国の中に漂う空虚感はなんだろう。そう、「空虚」な感じ。そう感じているのは私だけなのか、あなたたちは、そう感じてはいないのか。
それは例えば、狭い鶏舎で育てられた鶏肉の味気ない感じにも似ている。肉ではあるが地や陽の恵みからは縁遠い感じ。今の世の中をそのように憂う私がおかしいのだろうか。
今まで人を律してきたものはなんだったのだろう。なぜ、人は自らを律するものをなくしてしまったのだろうか。
これは私の問題でもある。そうして私は「考え中」の札を立てたまま、立ち尽くしている。
どこにいらっしゃろうと、bubeさんはbubeさん。
どこまでもついてまいりますよぉ。
では、えいやっと。
お手数ですが、よかったら、今度から、
こちらに遊びに来てください。
こんな日もあろうかと、
ひそかに、tandem update をしておりました。
暖かいコメントを財産と思い、livedoor で
耐えてきましたが決別の決断をいたしました。
コメントは、いつも、copy & past で、up していましたので、
テキストファイルで、保管しています。
私の、愛する、財産です。
これからもよろしくお願いいたします。
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http://onedih.blog21.fc2.com/
コメントありがとう。
立っている位置は関係ないはずなんだよね。
だのに、そうは思わせない方向に流れていて、知らぬ間にその流れに連れて行かれそうになっている。
自分の幸せの形を持つ人は幸いである。君はこれからそれを探すんだね。
やばいのはあたし。
両方とも。
五本指ソックスで、「開く」しかないかぁ。
「家の大きさや立派さをそろえようというのは間違いだ。小さなうちにがまんして住む人も大きな家にゆったり住む人もいていい。問題はその家にすむ人がひとしく幸せかどうかだ」
なーんてことを云ってたそうな。
メタボリック、危険です。
限りなく、近づいてます。
30日は、ドックです。
とどめを刺されそうです。
多数決で多い部類の、中の上だと思っている、
実は、下の上か、中の下。
そこでいいじゃん、それより上にはいけないよなぁ。
と、胡坐をかいてます。
楽ジャン派に属している1人です。
気がついたら、下の下にいないように、
私も立ち尽くして、考えよう。
ちょいとあわただしく、なのに立ち尽くしているうさとです。
けんちゃんは、「おいしいビール」を信じて生きている。けんちゃんにとって、「おいしいビール」は神様の賜物。味わいなされ、人生を。
ただし、メタポリックにはくれぐれも気をつけてね。85センチよ。
美味いビールを飲むために生きてるんじゃないかと錯覚に陥ることがある。遺憾如何!