実は私、国語国文学科卒です!!と言ってもあんまり「実は」の意味はないのですが...
中学の頃、教科として得意だったのはむしろ数学だったかもしれません。しかし、その頃から国語学をやるぞという意気込みだけはあった!!それは「ことば」が私にとって、魅惑的なものだったからだと思う。人前ですってんころりんと転ぶより、間違ったことばを使ってしまうことの方が私にとっては恥ずかしいことだったし、今もそうかも知れない。今日はそんな私の読書歴をひとくだり。
黎明期
「いなばのしろうさぎ」 年代が知れますが、私のこどもの頃は昔話や神話に題材をとったものが多かったように思います。「皮を剥くってどうよ、塩水がしみるし」と妙に生々しく刷り込まれています。同様に「かちかち山」も痛そうで怖かったし不条理だし、「ウサギとかめ」も「ウサギが本気を出せば絶対勝てることをどう説明するんだ」とこどもながらに心配したものです。まだ、「~レンジャー」みたいのほうが、教育上いいような気がするけど、あの頃の大人は「罪と罰」が倫理だったんでしょうか、とにかく怖いのが多かった。
しかし、その中にあることばのリズムというのは面白いものだった。大人になって松谷みよ子の民話集を読みましたが、それも、すっごく面白かった。「ほいこらどっこいどっこいしょ」みたいな掛け声があり、ことばにとっての「調子」というものが、お話の内容と同じくらいに大切なもんだと実感しました。「掛け声」が、読んでいてトランス状態に連れて行ってくれる。当然、声に出せばもっと効果は大。「読む」ということはやはり、音としてのことばとは切っても切れぬものだと思います。最近は「声に出して読む~」が注目されていますが、「字」のみで考えられることばはやはり、完全な「ことば」ではないと思います。こどもにとっても、音読は大切なことだと思います。学校でももっともっと注目されるべきだと思う。そういえば、教科書を音読するのも好きでした。ほとんど暗誦してました。
私はこの頃、足が悪く外で遊ぶことを禁止されていました。幼稚園も母の自転車に乗せられてかよい、半年は休園し、ギブスを見られるのがイヤでほとんどを家の中ですごしました。何もすることがなかったので、教育テレビで小学生の算数とか、理科とかを見ていました。ここで、ちょっと人生は変わってしまったのかもしれません。
「ちび黒サンボ」
これはたぶん民話だと思うんだけど、「ちび黒」というところが差別用語に引っかかってしまって発刊されなくなってしまったのは残念です。この頃の大人は何の戸惑いもなく「くろんぼ」とか言ってましたもんね。無頓着な時代でした。この本は、「ちび黒」という題名を代えるなりして残すことはできなかったんでしょうか。とにかく内容がシュールです。あまりのシュールさに脳が活性化されるほど。なんせ、木の周りをぐるぐる周るトラがバターになっちゃうなんて。書いた人が今放送作家になったら抜群の人気を得られるでしょうに。これも音読しました。やっぱり、ハイになりました。何度も何度もハイになりたくって音読しました。今考えてみると音読しながら恍惚としている小学生の私って変ですかね。
これら幼年期に読んだ民話系のお話は自分の底に静かに深く潜んでいる気がします。たとえば人との間で辛いことがあった時などフラッシュバックのように浮上してきます。「あの人の周りをぐるぐる周ってバターになりそうだ」なんて風にね。
書いてるうちにどんどんいろんな本を思い出してきてしまったので、続きはまた次回に。
中学の頃、教科として得意だったのはむしろ数学だったかもしれません。しかし、その頃から国語学をやるぞという意気込みだけはあった!!それは「ことば」が私にとって、魅惑的なものだったからだと思う。人前ですってんころりんと転ぶより、間違ったことばを使ってしまうことの方が私にとっては恥ずかしいことだったし、今もそうかも知れない。今日はそんな私の読書歴をひとくだり。
黎明期
「いなばのしろうさぎ」 年代が知れますが、私のこどもの頃は昔話や神話に題材をとったものが多かったように思います。「皮を剥くってどうよ、塩水がしみるし」と妙に生々しく刷り込まれています。同様に「かちかち山」も痛そうで怖かったし不条理だし、「ウサギとかめ」も「ウサギが本気を出せば絶対勝てることをどう説明するんだ」とこどもながらに心配したものです。まだ、「~レンジャー」みたいのほうが、教育上いいような気がするけど、あの頃の大人は「罪と罰」が倫理だったんでしょうか、とにかく怖いのが多かった。
しかし、その中にあることばのリズムというのは面白いものだった。大人になって松谷みよ子の民話集を読みましたが、それも、すっごく面白かった。「ほいこらどっこいどっこいしょ」みたいな掛け声があり、ことばにとっての「調子」というものが、お話の内容と同じくらいに大切なもんだと実感しました。「掛け声」が、読んでいてトランス状態に連れて行ってくれる。当然、声に出せばもっと効果は大。「読む」ということはやはり、音としてのことばとは切っても切れぬものだと思います。最近は「声に出して読む~」が注目されていますが、「字」のみで考えられることばはやはり、完全な「ことば」ではないと思います。こどもにとっても、音読は大切なことだと思います。学校でももっともっと注目されるべきだと思う。そういえば、教科書を音読するのも好きでした。ほとんど暗誦してました。
私はこの頃、足が悪く外で遊ぶことを禁止されていました。幼稚園も母の自転車に乗せられてかよい、半年は休園し、ギブスを見られるのがイヤでほとんどを家の中ですごしました。何もすることがなかったので、教育テレビで小学生の算数とか、理科とかを見ていました。ここで、ちょっと人生は変わってしまったのかもしれません。
「ちび黒サンボ」
これはたぶん民話だと思うんだけど、「ちび黒」というところが差別用語に引っかかってしまって発刊されなくなってしまったのは残念です。この頃の大人は何の戸惑いもなく「くろんぼ」とか言ってましたもんね。無頓着な時代でした。この本は、「ちび黒」という題名を代えるなりして残すことはできなかったんでしょうか。とにかく内容がシュールです。あまりのシュールさに脳が活性化されるほど。なんせ、木の周りをぐるぐる周るトラがバターになっちゃうなんて。書いた人が今放送作家になったら抜群の人気を得られるでしょうに。これも音読しました。やっぱり、ハイになりました。何度も何度もハイになりたくって音読しました。今考えてみると音読しながら恍惚としている小学生の私って変ですかね。
これら幼年期に読んだ民話系のお話は自分の底に静かに深く潜んでいる気がします。たとえば人との間で辛いことがあった時などフラッシュバックのように浮上してきます。「あの人の周りをぐるぐる周ってバターになりそうだ」なんて風にね。
書いてるうちにどんどんいろんな本を思い出してきてしまったので、続きはまた次回に。
「はじめての雪」からずっと読んでたよ。
北欧の昔話「ホレおばさん」 (大筋はまま子いぢめのお話。)天上で羽毛布団を振って雪を降らせるおばあさんのお話を思い出していました。
下界でいぢめられたまま娘が「天界」のホレおばさんのところで平安をみつけるのだけれど、まま母・まま姉につらいめにあわされても「下界」が恋しくなり、帰りたいと言い出す。 おばさんが
「帰りたいとは、嬉しいねえ」といって福をさずけて帰してくれる。っておはなしでした。
ちょっといっぷく 癒されましたので 仕事いってくる。 また、寄りますね。下界が待ってる。
私みたいにハイになるのは、過感情移入だというのを呼んだことあります。無音になれるってのはいい読書ですよね。
今は「大」の字は外れましたが好きとは言い難いです。
しかし、こうしてうさとさんのブログを読んでいるとその情景が心に浮かんできて、それを感じると楽しくなってきます。
ひょっとしてこの感覚が読書の楽しさと言うんでしょうか?