私は「はまりやすい」。気になりだすとたまらない。集めたおさねば気がすまない。好きになったもので知らないことがあるなんて絶対いや。世の中のあらゆる情報を知り、食べて食べて体全部がそれにならないといや。それは「憑き物」と呼ぶにふさわしい。集めるということだけでなく、好きになった作家、音楽。一日中それに浸ると、ある日飽和点に達し、憑き物は落ちるという繰り返しの人生だ。しばらく続いていたオールドノリタケ狂いも、飽和点を見たようで、最近は近代建築に夢中だ。今日の新聞に岐阜の「日下部家」移築の危機という記事が載っていた。たまたま今日は岐阜の市街地方面に所用で出かけたので、ぽっかり空いた土曜の午後、岐阜近代建築巡りをした。
まずは旧加納市役所。扉は閉ざされている。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/69/a1/1d73f5c853a9f1727ecb205d680dd83c.jpg)
次は岐阜市合同庁舎。こちらも土曜はお休み
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3e/a8/5dbfd37d3b9449107a4ecec67439468b.jpg)
のぞくとつるつるの大理石の向こうでぼんやり部屋の明かりがついている。随分前、初めて入ったとき、ひんやり冷たい広い石の階段に感嘆の声も出なかったっけ。
そうして、「日下部家」。しばらく前までは和館の方も「吉照庵」という蕎麦屋だった。打ち水をした細い通路を入っていく店だった。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/66/f6/e92d4843daf4a45db1f12254076f829f.jpg)
壁には、「2件先に移転しました」とある。黒壁は静かだ。隣の洋館は今、「石原美術」という画廊になっている。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1e/f9/94b73a3f861eea3bdc94f4a2a10cf126.jpg)
やはりここも石造りの階段を持つ館。「ドグラマグラ」の博士はこんなところに住んでいたか、と思った。記事では、和館の維持が難しくなったので、他県に移築する予定があるということだ。おうちが売られていくということなんだろうか。日下部邸があるのは岐阜市米屋町。地名も美しい。
地方が弱くなるということはこういうことなんだ。おうちが売られていくということなんだ。
物を集めるということは、執着である。拘泥である。
心ひかれるものを見出し、一つ一つを自分のものにしていく。虫ピンで昆虫を止めるように我が物とする。手に入れようとする時の沸き立つ気持ち。その時、我が物でないという不自由から解き放たれる。しかし、蒐集るということはもう、それだけで不自由なことだ。次はこれを、次はそれをという気持ちで心は縛られる。最近の世の中ではこだわるということを、高等なことと見がちであり、こだわっている人を持ち上げる。しかし、こだわるという言葉の本来の意味は無用の執着であり、避けるべき心根というマイナスイメージを持つ。こだわるとは拘泥である。「拘束」と字を同じくする、束縛である。己の意思で集めているように思い、我が物とする自由を有したのだと思っているが、「もの」に絡めとられている。我が物にせねばならぬ心の鎖だ。ぐるぐると巻かれて、その中で歓喜している。教えの本には、捨てるべきものとしてこだわることを挙げる。執着は捨てねばならぬ煩悩であり、こだわりを捨てられぬ人は無間地獄に落ちると諭す。若い頃の私はその意味がわからなかった。執着するからこそ文明は進化したのにと思っていた。が、古いおうちを見に行くようになり、私は最近ちょっとだけ地獄行きから離れたようだ。我が物にならぬとも、その価値は揺るがない。
少し日も暮れてきた。行き当たりばったりにおうちを見ながら、私は自由だ。古いおうちは雨やら風やら年月やらに曝されて、静かに立っている。何物からもプラスマイナスゼロの地点、ニュートラルなところで。少し忘れられていて、少し死んでいて、少しだけ困り顔で、心細そうで、素敵だ。
私は昔から、蒐集狂いをしながら、その裏腹に、私など手も出せない物に恋焦がれていたのかもしれない。私などがどうやっても手にいれられないものに熱狂したいと思っていたのかもしれない。そうして今、恋焦がれているのに、私は縛られておらず、私は自由だ。大きく息を吸ってみる。大人になることも悪いことではない。
まずは旧加納市役所。扉は閉ざされている。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/69/a1/1d73f5c853a9f1727ecb205d680dd83c.jpg)
次は岐阜市合同庁舎。こちらも土曜はお休み
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3e/a8/5dbfd37d3b9449107a4ecec67439468b.jpg)
のぞくとつるつるの大理石の向こうでぼんやり部屋の明かりがついている。随分前、初めて入ったとき、ひんやり冷たい広い石の階段に感嘆の声も出なかったっけ。
そうして、「日下部家」。しばらく前までは和館の方も「吉照庵」という蕎麦屋だった。打ち水をした細い通路を入っていく店だった。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/66/f6/e92d4843daf4a45db1f12254076f829f.jpg)
壁には、「2件先に移転しました」とある。黒壁は静かだ。隣の洋館は今、「石原美術」という画廊になっている。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1e/f9/94b73a3f861eea3bdc94f4a2a10cf126.jpg)
やはりここも石造りの階段を持つ館。「ドグラマグラ」の博士はこんなところに住んでいたか、と思った。記事では、和館の維持が難しくなったので、他県に移築する予定があるということだ。おうちが売られていくということなんだろうか。日下部邸があるのは岐阜市米屋町。地名も美しい。
地方が弱くなるということはこういうことなんだ。おうちが売られていくということなんだ。
物を集めるということは、執着である。拘泥である。
心ひかれるものを見出し、一つ一つを自分のものにしていく。虫ピンで昆虫を止めるように我が物とする。手に入れようとする時の沸き立つ気持ち。その時、我が物でないという不自由から解き放たれる。しかし、蒐集るということはもう、それだけで不自由なことだ。次はこれを、次はそれをという気持ちで心は縛られる。最近の世の中ではこだわるということを、高等なことと見がちであり、こだわっている人を持ち上げる。しかし、こだわるという言葉の本来の意味は無用の執着であり、避けるべき心根というマイナスイメージを持つ。こだわるとは拘泥である。「拘束」と字を同じくする、束縛である。己の意思で集めているように思い、我が物とする自由を有したのだと思っているが、「もの」に絡めとられている。我が物にせねばならぬ心の鎖だ。ぐるぐると巻かれて、その中で歓喜している。教えの本には、捨てるべきものとしてこだわることを挙げる。執着は捨てねばならぬ煩悩であり、こだわりを捨てられぬ人は無間地獄に落ちると諭す。若い頃の私はその意味がわからなかった。執着するからこそ文明は進化したのにと思っていた。が、古いおうちを見に行くようになり、私は最近ちょっとだけ地獄行きから離れたようだ。我が物にならぬとも、その価値は揺るがない。
少し日も暮れてきた。行き当たりばったりにおうちを見ながら、私は自由だ。古いおうちは雨やら風やら年月やらに曝されて、静かに立っている。何物からもプラスマイナスゼロの地点、ニュートラルなところで。少し忘れられていて、少し死んでいて、少しだけ困り顔で、心細そうで、素敵だ。
私は昔から、蒐集狂いをしながら、その裏腹に、私など手も出せない物に恋焦がれていたのかもしれない。私などがどうやっても手にいれられないものに熱狂したいと思っていたのかもしれない。そうして今、恋焦がれているのに、私は縛られておらず、私は自由だ。大きく息を吸ってみる。大人になることも悪いことではない。
何一つとっても忘れやすくなり収拾が付かない。棚上げになった案件が山積している。昔買った衣服のように忘れ去られることがこの先どんどん増えそうだ。
ちょっと納戸を整理しようとしたら出てくる出てくる昔拘った遺物が。自分だから懐かしいが他人には何の価値も無い異物だ。永遠の時間が欲しいと思うひと時であった。
おまけに、捨てられない癖があって、
家は狭いのに、物だらけ。
1つ1つに、我が家に来たかったかどうか、
問いかけてみようかな?
集められたものたちは、うさとさんの所に行きたーいって、
言ってるかも。
実は私、熱が冷めると昔凝ったものを見たくもなくなってしまうときがある。物は集まるばかり。これでもA型だろうか。しかし、ぽっくり死んだら、ガラクタばかしだなあ。
わたしも、もの一つ一つに尋ねてみる。ホントに私のところにきたかったの?non nonもっとお片づけの好きなところに行きたかったよおと泣く声が聞こえる・・・