死にたがる子、死んでいく子に、多くの偉い人が語りかけて、名の或る人も、そうでない大人も何がしかの感想を語っているけれど、それらの多くがぴったりこないのはなぜかな。それらの言葉は何でも吸い込んでしまいそうな闇の中にひゅううと飲み込まれていく。それはなぜかな。実体も質量もない言葉と思えてしまう。届かねばならぬところには配られないのはなぜ。
大人がこどもを思いやるとき、それは外れて、肝心なところとすれ違ってしまう。それは、その大人が、自分はそれを乗り越えてきたと思っているからだろう。何とかやってきたと思っているからだろう。だから君もがんばり給えという。乗り越えれば明日は待っているという。それはその通りだ。しかし、まず問題なのは、語った大人自身、本当に乗り越えてきたのかということだ。自らはそう思っているが、それは錯覚であることが多い。乗り越えたのではなく、うまく見ぬ振りをして大人になったり、本当は強弁なこどもだったりしたということもある。また、死にたがっている子が求めているのは、今日どう過ごすかということであるという問題もあるのに、それを語っていないということもある。遠い未来の話より、まず、明日どうすべきか教えて欲しい、というこどもになかなか大人の声は届かない。正直なところを言うと、大きく取り上げられた時期に読んだ大人の言葉のほとんどは、ウソ臭い物だった。その通りだと思えたのはたった2つだけだった。
それはきっと、死にたがる子を思いやった上でその発想の間違いを指摘する人が少なかったからだ。「君は悪くないのだ」と妙に優しい声で言っていたり、「もっと強くなれ」と叱咤したりだった。大人が大人の立場で話している。少し思い出せばいいのに。自分が子どもだった時の、ほんとに些細なことを気にしていたりしたことを。
苛められ追い詰められた子は、とにかく相手の前から逃げるべきだし、大人はその実践的方法を一緒に考えたり教えたりすべきだ。しかし、「死」という方法でけりをつけようとするのは間違いであるか、病的であることをも教えるべきだ。それが本当の大人としての役割であり、「育てる」ということだと思う。「死にたくなる君の気持ちはわかるよ」というだけでは、十分ではない。
幼い復讐。死によってしか晴らすことが出来ないと思いつめている。強い恨みの気持ち。しかし、それは無益だ。そして卑怯なまねだ。死は時を切断するものだからだ。死んだからといって恨みを晴らせるわけではない。ほとんどの物はなくなったものを忘れながら生きていく。死のうと死ぬまいと恨みを買うことをしたと気づく人は気づくだろうし、気づかない人は何百人が死んだとて気づかない。そうして死はexcuseを拒絶する。極悪人であれ、裁判には弁護人がつき、地獄では弁明が許される。しかし、死はそれを拒む。あの時はごめんねという一言にさえ耳をふさぐ。「あの時あんなに私は辛かったんだよ」と言うことも未来永劫不可能にする。いじめの最中「やめてよ」というのを相手が聞き入れなかったのと同じことを自分もするということだ。それでしか復讐が出来ないと思うことは幼い。死は世の中の全ての人を捨て去るということだ。どんな行動よりも残酷で冷たい。優しい言葉をかけてくれた人も、落し物を拾ってくれた人も、にっこり笑ってくれた人も、おいしいラーメンを作ってくれた人も全部全部を自分から、ばっさりと切って捨てることだ。友達から捨てられていることに傷ついていたのなら、その何倍も残酷で冷酷なことを自分がしようとしていることの間違いに気づくべきだ。その残酷さに気づかねば、自分が酷いことをされて傷ついたことも否定することになってしまう。傷ついたものだからこそ、人を傷つけることはしてはならない。その傷が不当な仕打ちから出来たものであるなら、その辛さを知っているなら、他人には酷いことは出来ぬはずであるからだ。
まずはその場を立ち去れ。そうして力を溜め、逆襲をしろ。ぐうの音も出ぬような形で。君がさげすんでいたヤツは、こんなに君を越えたものだったのだと万人が否定できぬ形で見せ付けてやれ。そのために生きてもいい。嵐の日は身をかがめていいのだ。それに向かって歩かねばならぬわけではないのだ。そうして風が凪いだら立ち上がって歩き始めればいい。
大人がこどもを思いやるとき、それは外れて、肝心なところとすれ違ってしまう。それは、その大人が、自分はそれを乗り越えてきたと思っているからだろう。何とかやってきたと思っているからだろう。だから君もがんばり給えという。乗り越えれば明日は待っているという。それはその通りだ。しかし、まず問題なのは、語った大人自身、本当に乗り越えてきたのかということだ。自らはそう思っているが、それは錯覚であることが多い。乗り越えたのではなく、うまく見ぬ振りをして大人になったり、本当は強弁なこどもだったりしたということもある。また、死にたがっている子が求めているのは、今日どう過ごすかということであるという問題もあるのに、それを語っていないということもある。遠い未来の話より、まず、明日どうすべきか教えて欲しい、というこどもになかなか大人の声は届かない。正直なところを言うと、大きく取り上げられた時期に読んだ大人の言葉のほとんどは、ウソ臭い物だった。その通りだと思えたのはたった2つだけだった。
それはきっと、死にたがる子を思いやった上でその発想の間違いを指摘する人が少なかったからだ。「君は悪くないのだ」と妙に優しい声で言っていたり、「もっと強くなれ」と叱咤したりだった。大人が大人の立場で話している。少し思い出せばいいのに。自分が子どもだった時の、ほんとに些細なことを気にしていたりしたことを。
苛められ追い詰められた子は、とにかく相手の前から逃げるべきだし、大人はその実践的方法を一緒に考えたり教えたりすべきだ。しかし、「死」という方法でけりをつけようとするのは間違いであるか、病的であることをも教えるべきだ。それが本当の大人としての役割であり、「育てる」ということだと思う。「死にたくなる君の気持ちはわかるよ」というだけでは、十分ではない。
幼い復讐。死によってしか晴らすことが出来ないと思いつめている。強い恨みの気持ち。しかし、それは無益だ。そして卑怯なまねだ。死は時を切断するものだからだ。死んだからといって恨みを晴らせるわけではない。ほとんどの物はなくなったものを忘れながら生きていく。死のうと死ぬまいと恨みを買うことをしたと気づく人は気づくだろうし、気づかない人は何百人が死んだとて気づかない。そうして死はexcuseを拒絶する。極悪人であれ、裁判には弁護人がつき、地獄では弁明が許される。しかし、死はそれを拒む。あの時はごめんねという一言にさえ耳をふさぐ。「あの時あんなに私は辛かったんだよ」と言うことも未来永劫不可能にする。いじめの最中「やめてよ」というのを相手が聞き入れなかったのと同じことを自分もするということだ。それでしか復讐が出来ないと思うことは幼い。死は世の中の全ての人を捨て去るということだ。どんな行動よりも残酷で冷たい。優しい言葉をかけてくれた人も、落し物を拾ってくれた人も、にっこり笑ってくれた人も、おいしいラーメンを作ってくれた人も全部全部を自分から、ばっさりと切って捨てることだ。友達から捨てられていることに傷ついていたのなら、その何倍も残酷で冷酷なことを自分がしようとしていることの間違いに気づくべきだ。その残酷さに気づかねば、自分が酷いことをされて傷ついたことも否定することになってしまう。傷ついたものだからこそ、人を傷つけることはしてはならない。その傷が不当な仕打ちから出来たものであるなら、その辛さを知っているなら、他人には酷いことは出来ぬはずであるからだ。
まずはその場を立ち去れ。そうして力を溜め、逆襲をしろ。ぐうの音も出ぬような形で。君がさげすんでいたヤツは、こんなに君を越えたものだったのだと万人が否定できぬ形で見せ付けてやれ。そのために生きてもいい。嵐の日は身をかがめていいのだ。それに向かって歩かねばならぬわけではないのだ。そうして風が凪いだら立ち上がって歩き始めればいい。
友達に、親しい人に死なれてしまう。
それより恐ろしいことがこの世にあるでしょうか。私には思いつきません。そんなこと思うやつはバカヤローです。一緒にバカ騒ぎでもして、違うとこにも生きるとこはあるんだと教えてあげましょう。私を捨てていくのかと泣いてやりましょう。生きていくことは誰だって心細い、のにね。今日も私は心細いです。そうして心細く生きていくんだ、きっと、みんな。コメント、ありがとうございます。
自殺したいと思いつめている人の耳に、どれほどの言葉が届くのだろうと私もずっと思ってきました。今とても切羽詰った状況なのに必死で耐えているのに頑張れと言っても無理だと・・。そんな中で「逃げろ」と言った人がいて、そうだ、逃げなくてはいけない、周囲の親や教師は逃がしてあげなくてはいけないのだと思いました。
でも自分のブログでは書けなくて・・ブログ仲間に自殺願望のある鬱の友人がいたので自殺や死という言葉を使いたくなかったのです。(その友人は一度自殺未遂をした後で怖くなり今は自殺しようと考えていないみたいですが・・。)
書きたかったことを書いてもらったように感じました。それも、より確かな言葉で。
感謝です。