現代は神なき時代であるっ!この日本においてどれだけの人が真剣に神なり、仏なりの存在を信じているのであろうか。いや、確かにおられるのだろうけれど、例えば聖典仏典に書いてあるようなことを真実だと思っている奇特なお方がどれだけおられるだろうか。少なくとも私は、畏れ多くも持ち合わせておらぬのである。
が、寺社巡りをしております。
多分、この遍歴は
オールドノリタケ→洋館→近代建築→歴史的建造物→寺社仏閣 古街道 宿場 城下町
って過程を辿ってきたのだけれど。だもんだから、巡る神仏はほとんど文化財指定されてるとこだったりする、罰当たりのものだったりするのだけれど、休みのたんびに巡る巡るという状態ですよ。
そうなのだ。きっとこういうのって本当に罰当たりなんだろうなあって思う時もあるのだけれど、お寺もお社も、本当に素敵だ。建物って無機物なのに、もうそこにあるだけで拝みたくなる。もちろん、仏像さまも、飛び切りのお方は「神々しい」という言葉は、神様の存在を信じるとか信じないなんてちっぽけなことはひょいと越えてしまったところにちゃんと存在しているのだと思う。
思えば、学校で習った日本の歴史は宗教についてなんてちゃんと教えてくれなかった。それだから、神社では二拍手だけれど、お寺ではそうしては駄目とかっていうしきたりがあって、寺社は分離した信仰だと思い込んでいた。
でも、古い寺社に行けば、神社と寺院が同じ敷地に隣り合って建っていて、本当は仲がよかったのだとわかる。神仏分離というのが明治政府の「政策」でしかなかったことがわかる。
私は今の今まで、そんなことさえちゃんと知らなかったよ。日本人が1000年も前から神様も仏様も一緒に拝んじゃってるってことを知識としては知ってた気がするけど、本当には知らなかった。
ちょっと、いいな、って思った。
区別差別なしに、信じちゃうよ、拝んじゃうよって昔の日本がしてきたことって、ちょっといいんじゃない?
ありがたい、と思えば、それ勧進、ってちょっといいよね。
そんなんで、文化財指定と聞けば出かけ、御開帳だと聞けば出かけ、出かける途中で案内板が出ていれば拝み、の日々なのだ。
古い寺社は名水にちなむところが多いので、湧き水も汲む。故に車には水汲み容器と石段を登るための携帯ステッキは常備なのだ。
秋に巡ったのは 長命寺 竹生島宝厳寺 白山長滝神社 津島神社 国府宮神社 曼荼羅寺 日吉大社 渡岸寺十一面観音様 御朱印もいただいちゃう。
何にも知らなかったのだ。日本の宗教に関するいろいろ。教科書は本当のところを教えてくれていなかった。わずかに残った私の知識欲は、刺激されまくっている。宗派とか、歴史的な事象との関わりとか、もう知らなかったことだらけで、謀られていたのか、私は、と思わんばかりだ。
寺社を巡るたびに、人っていいな、おもしろいな、って思う。
誰だかわからぬ人が、名もない人が この荘厳な建物を建て、神々しくも勿体なくもありがたい仏様を造り、数知れぬ人が拝んで、寺社をお守りしたのだなあ、って思う。そういう、人の心はかわいらしくありがたいなあと思う。
私ごときのちっぽけなものに、神仏を信じてないからけしからんなんてぇ器の小さいことは、全く気にもかけぬように、寺社や仏像は気高く佇む。そこにあるというだけで、拝みたくなる。神仏の区別をつけず拝んできた歴史の中の人々は、そういうこともわかっていたのではないかと思う。
空一面の夕焼けや開き始めの蕾が美しく拝みたくなるのと同じなのではないかと思う。
拝みながらも、ほとんどの場合願い事はしない。寺社を見せてもらいに来ているだけの私なのだから、訪問の名乗りとお礼を言う。それぞれの寺社にはそこをお守りし信仰している氏子さんや檀家さんがいらっしゃり、よそ者の私が願掛けなどせずと、この時まで、ここにあり続けていることと、私の訪問を拒まずにそこにあることをありがたく思うばかりだ。寺社の空気の中にあるだけでよいと思えるものがある。その上願い事など、欲張りなまねはしなくていいのではないかな。
きっと、こういう大きな大きな寺社を造り、人の技とも思えぬような仏像を作る人の行為の中に神仏があり、それを長い時間守ってきた人たちの気持ちの中にありがたきものがあり、その神様仏様を、私は拝みに行くのだな。
が、寺社巡りをしております。
多分、この遍歴は
オールドノリタケ→洋館→近代建築→歴史的建造物→寺社仏閣 古街道 宿場 城下町
って過程を辿ってきたのだけれど。だもんだから、巡る神仏はほとんど文化財指定されてるとこだったりする、罰当たりのものだったりするのだけれど、休みのたんびに巡る巡るという状態ですよ。
そうなのだ。きっとこういうのって本当に罰当たりなんだろうなあって思う時もあるのだけれど、お寺もお社も、本当に素敵だ。建物って無機物なのに、もうそこにあるだけで拝みたくなる。もちろん、仏像さまも、飛び切りのお方は「神々しい」という言葉は、神様の存在を信じるとか信じないなんてちっぽけなことはひょいと越えてしまったところにちゃんと存在しているのだと思う。
思えば、学校で習った日本の歴史は宗教についてなんてちゃんと教えてくれなかった。それだから、神社では二拍手だけれど、お寺ではそうしては駄目とかっていうしきたりがあって、寺社は分離した信仰だと思い込んでいた。
でも、古い寺社に行けば、神社と寺院が同じ敷地に隣り合って建っていて、本当は仲がよかったのだとわかる。神仏分離というのが明治政府の「政策」でしかなかったことがわかる。
私は今の今まで、そんなことさえちゃんと知らなかったよ。日本人が1000年も前から神様も仏様も一緒に拝んじゃってるってことを知識としては知ってた気がするけど、本当には知らなかった。
ちょっと、いいな、って思った。
区別差別なしに、信じちゃうよ、拝んじゃうよって昔の日本がしてきたことって、ちょっといいんじゃない?
ありがたい、と思えば、それ勧進、ってちょっといいよね。
そんなんで、文化財指定と聞けば出かけ、御開帳だと聞けば出かけ、出かける途中で案内板が出ていれば拝み、の日々なのだ。
古い寺社は名水にちなむところが多いので、湧き水も汲む。故に車には水汲み容器と石段を登るための携帯ステッキは常備なのだ。
秋に巡ったのは 長命寺 竹生島宝厳寺 白山長滝神社 津島神社 国府宮神社 曼荼羅寺 日吉大社 渡岸寺十一面観音様 御朱印もいただいちゃう。
何にも知らなかったのだ。日本の宗教に関するいろいろ。教科書は本当のところを教えてくれていなかった。わずかに残った私の知識欲は、刺激されまくっている。宗派とか、歴史的な事象との関わりとか、もう知らなかったことだらけで、謀られていたのか、私は、と思わんばかりだ。
寺社を巡るたびに、人っていいな、おもしろいな、って思う。
誰だかわからぬ人が、名もない人が この荘厳な建物を建て、神々しくも勿体なくもありがたい仏様を造り、数知れぬ人が拝んで、寺社をお守りしたのだなあ、って思う。そういう、人の心はかわいらしくありがたいなあと思う。
私ごときのちっぽけなものに、神仏を信じてないからけしからんなんてぇ器の小さいことは、全く気にもかけぬように、寺社や仏像は気高く佇む。そこにあるというだけで、拝みたくなる。神仏の区別をつけず拝んできた歴史の中の人々は、そういうこともわかっていたのではないかと思う。
空一面の夕焼けや開き始めの蕾が美しく拝みたくなるのと同じなのではないかと思う。
拝みながらも、ほとんどの場合願い事はしない。寺社を見せてもらいに来ているだけの私なのだから、訪問の名乗りとお礼を言う。それぞれの寺社にはそこをお守りし信仰している氏子さんや檀家さんがいらっしゃり、よそ者の私が願掛けなどせずと、この時まで、ここにあり続けていることと、私の訪問を拒まずにそこにあることをありがたく思うばかりだ。寺社の空気の中にあるだけでよいと思えるものがある。その上願い事など、欲張りなまねはしなくていいのではないかな。
きっと、こういう大きな大きな寺社を造り、人の技とも思えぬような仏像を作る人の行為の中に神仏があり、それを長い時間守ってきた人たちの気持ちの中にありがたきものがあり、その神様仏様を、私は拝みに行くのだな。