うさとmother-pearl

目指せ道楽三昧高等遊民的日常

宿場の牡丹は池田山へと続いている

2008年04月19日 | お出かけ
最近の楽しみは、いわば下流である。無料、もしくは何百円という拝観料のところは、眼福の宝庫だ。国宝も、重要文化財も、登録文化財も、ほとんどは無料か小額の入場料で、その姿を拝見できる。千円札一枚も使い切らずに帰ってくるということも少なくない。

さて、先週の日曜は春の恒例である、多治見市之倉の陶祖祭に出かける。太っ腹の幸兵衛窯さんのお庭では、桜が散る中で太鼓のライブを聴く。昨年まではお茶とお菓子の接待があったが、今年からお菓子はカットされたよう。お大尽の無料お接待は、たとえ硬貨一枚で買える様なお菓子であっても、こちらまでのんびり泰平な気分になってうれしいものだ。ちょいとどんぶり勘定的な所が、利益率とかばかしの世知辛い中では時代錯誤でほっとする。幸兵衛さんのところでのそんな御接待がなくなってしまったのは寂しかったけれど、桜の堤が続く川沿いの窯では桜外郎の御接待があり、蕎麦茶を頂く。陶器を求める人たちが桜の中をゆっくり歩き、去年と同じように、桜が散り、菜の花が咲き、底まで透明の川が流れている。
今年は市之蔵の奥にある熊野神社にも出かけてみた。険しい参道の途中には、鳥居を横断するように、見事な枝垂れ桜の古木がある。花は終わっていたけれど、いつかは咲く姿を拝見したい。格天井には大正の陶工が奉納した絵が埋められている。唐美人やらが、ひっそりと在る。帰りは室町の本堂を持つ定光寺に行き着いたのもうれしかった。

         

熊野神社つながりで、今日は揖斐郡池田町の熊野神社クラフト展へ。
そういえば、牡丹の時期ですね、ということで、まず、旧中山道赤坂宿の御茶屋屋敷に。赤坂宿きっての旧家である矢橋家さんが無料公開しているお庭である。高い土塁に囲まれた御茶屋屋敷は惚れ惚れするような庭園である。                         
          
            
竹林に囲まれ、土塁の外には野草が揺れる。白い花を指し「これはオドリコ草」と友が教えてくれた。律儀に、そうして優しく整えられたお庭には時の花だけでなく、ぷっくりと育った野菜の花も咲いているのは好ましい。
牡丹の盛りはまだ少し先、ということだが、臙脂、紫、桃色の花は見時だ。
           
矢橋家は宿場の商いを経て、明治には大理石商となる。中山道から北の谷汲巡礼道、伊勢街道と分かれる四つ角に長い長い壁を持つ。そこから少し南東にはステンドグラスと大理石で作られていると噂に聞いた洋館がある。なまじのお大尽ではないのだ。
その四辻から谷汲巡礼道を北上し、池田町に向かう。近江から山越えをした西の人々は池田から美濃の平野をどのように見ただろう。そこかしこに清い水が流れ、遥遥と続く陽の当たる平野は、どんなにか魅力的であったろう。西の果ての向こうの地、東の始まりの地。たとえ凡夫でも天下取りを目指そうという気持ちにもなってしまうというものだ。茶畑の脇の水路には雪解け水がごうごうと流れる。ペットボトルに詰めたら「美濃一望の名水」とでも名づけ、そのまま売れそうな清らかな水だ。蓋のされているところは水琴窟のようにカランコロンと響く。春祭りのお囃子のようで、水音のようで私はわからなくなってしまう。遠くの山なみは新しい緑と陽の影で衣紋のようだ。そうだ、「夢」という映画の中に出てきたような、春のやまがだ。
池田熊野では参道でクラフト展。なんと50円という梅茶漬けを頂く。私、梅干はちょいと苦手なのだけれど、「だまさぬ味」の梅茶漬けはさらさらといただけた。このイベントの企画者の土川さんの庭では、窯でお肉がおいしそうに焼けていて、本とにほんとに夕方の懇親会に出たかったのだけれど、後ろ髪を引かれつつ帰った。少しだけお話をした土川さんは中濃のわたしにはかすかに西の言葉。
池田は京都の熊野神社の荘園であり、池田庄と呼ばれていたらしい。
中山道を近江から美濃へと辿っていくと、そこが西と東の境界であることがわかる。近江のべんがらが、関が原を境に消えていく。しかし、その言葉の端々に残る西の香り。そして、混じり物の一片もない水と大気。
本当に美しいものは商売をしない、ということが私には楽しい。
今まで生きてきた中で服とか装飾品とかに散財はしなかったけれど、たくさんたくさんの茶碗やらを買った。もしかしたら一生分を買ってしまったのかもしれない。でも、本当にほしいものは、定光寺の本堂だったり、御茶屋屋敷のような庭だったり、池田山からの眺めだったり、する。それらは値段のつけがたいもので、私はそれに今まで気づかなかった。物を手に入れれば入れるほど、本当に欲しい物は、手に入れられないものだと気づく。自分のものにするということにとらわれることの馬鹿馬鹿しさに気づく。年月を経、美しさを増していくものが、その場所に、居続けていてくれることの安らかに気づく。本当の贅沢は、それがそこにいて、見に行けばそこに居続けていてくれることだ。逆説的に言ってしまえば、私のものでないからこそ、それは美しい。私が気ままに出かけても、私が気に入らなくなっても、そうしてわたしがここから居なくなってしまっても、それがそこに在り続けるということが、美の完成であろう。
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