日米マットでトップレスラーとして活躍したプロレス界のレジェンド、マサ斎藤さん(本名・斎藤昌典)が14日に死去した。75歳だった。健介オフィスが16日、発表した。
発表によると2000年に発症したパーキンソン病で闘病中だった斎藤さんはリハビリに励んでいたが、容体が急変。14日午前1時5分に帰らぬ人となった。通夜及び葬儀に関しては、家族・関係者が都内で執り行う予定としている。
齋藤倫子夫人は「来年、再び、カムバックのチャンスも出てきました。そのためにリハビリに意欲を燃やしていた矢先。容体急変。7月14日01時05分に永眠しました。穏やかながらも、新たなチャレンジへ向かうような、マサ斎藤らしい力強い旅立ちでした。現役時代ならびに闘病生活中にお世話になりました皆さま方に対し、生前に賜りましたご厚意に感謝し謹んでご通知申し上げます」とコメントした。
斎藤さんは1942年8月7日生まれで東京・中野区出身。1964年の東京五輪レスリング日本代表として活躍し、65年に日本プロレスに入門。68年に海を渡り米国マットでも活躍し、82年以降は長州力の維新軍、ジャパンプロレスに参加した。84年には米国で同僚レスラーの乱闘事件に巻き込まれ有罪となり、1年半服役。出所後の87年にはアントニオ猪木氏(75=参院議員)と巌流島で決闘した。
90年にはAWA世界王座を獲得。99年に現役を引退し、その後は佐々木健介(51)率いる健介オフィスのアドバイザーなどを務めた。信条は「Go For Broke!」(当たって砕けろ)で、現役時代は180センチ、120キロの体を駆使して必殺の岩石弾や監獄固めで大型外国人選手と戦う姿がファンに人気だった。
2000年にパーキンソン病を発症。15年11月の本紙インタビューでは2020年東京五輪の聖火ランナーになることを目標にリハビリに励んでいることを告白した。昨年4月7日に大阪市立城東区民センターで開催されたプロレス興行でリングに立ち、同大会に出場した愛弟子のマサ北宮(29=ノア)を激励した。これが公に姿を見せた最後となった。
生田悦子さんが虚血性心不全のため死去 71歳
[2018年7月17日15時28分]
女優生田悦子さんが7月15日に、虚血性心不全のため、都内の病院で亡くなっていたことが17日、分かった。71歳だった。所属事務所がホームページで発表した。
事務所によると、最近までの生田さんは、入院や通院治療をするような持病もなく、普段通りの生活をしていた。15日午前に就寝中の異変に夫が気づき、救急車で病院に搬送されたが、その後に息を引き取ったという。
葬儀は故人の遺志により近親者で行う。後日、お別れの会を開く予定。
生田さんは福岡県出身で、1947年(昭22)4月8日生まれ。63年に準ミス平凡に選ばれ、66年に松竹に入社。同年11月に映画「命果てる日まで」で女優デビューし、その後、映画やドラマ、バラエティーで活躍していた。06年12月には、更年期うつによる闘病生活を送っていたことを告白していた。
生田さんは、81年4月から83年9月まで放送されたフジテレビ系人気バラエティー番組「欽ドン!良い子悪い子普通の子」に出演。小柳みゆき(現小柳友貴美)が演じたワル山(悪いOL)、松居直美が演じたフツ山(普通のOL)とともに、ヨシ山(良いOL)として活躍した。
3人は「よせなべトリオ」というユニット名で、82年に「大きな恋の物語」でレコードデビューも果たし、オリコンランキング8位を記録するヒット曲となった。
ドラマは73年のNHK大河ドラマ「国盗り物語」、79年「草燃える」、78年フジテレビ系「白い巨塔」、95年日本テレビ系「家なき子2」に出演した。
私生活では、58歳の誕生日の2日前となる05年4月6日、57歳の実業家と結婚した。初婚だった。当時、日本テレビ系「ザ・ワイド」に出演した生田さんは「この年での結婚は、今の幸せを生きたいから」と喜びを表していた。また、編み物が得意で著書「生田悦子のおしゃれゆび編み」もある。