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私たちが子供の頃よく歌い、今も歌い継がれている唱歌「早春賦」。
曲には哀愁が漂い、詞には本格的な春の到来を待ち焦がれる気持ちがあふれている。
曲と詞がうまくかみ合っていてすばらしい。
先日、地域自治会のハーモニカ・グループが、自治会の中高年がふれあう会に招か
れて演奏会を開催し、日頃の練習の成果を披露した。演奏者は60歳代から70歳
後半の男女十数名だが、スクリーンミュジックから懐かしのメロディ、そしてみん
なが歌える唱歌、童謡まで20曲くらい、相当なレベルである。平日でもあり、聞
いている方も中高年であるが7~80人くらい、いや100人位はいたであろうか。
春は名のみの 風の寒さや
谷のうぐいす 歌は思えど
時にあらずと 声も立てず
時にあらずと 声も立てず
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ところで、早春賦の「賦」とは何のことであろうか。この歌は大正二年に作られた歌で
文語調で出来ている。子供の頃は単純に「早春賦」という名前の歌と思い込んでいた。
中学生の頃、「賦」というのは文語調の歌に使われる言葉で、「今は早春そのもの」と
か「早春の歌(詩)」という意味に理解していた。今回久しぶりに「早春賦」を歌って
いるうちに突然この心地よい響きの「賦」という言葉は一体どんな意味だったのだろう
かと急に疑問に思った。
しかも二番の歌
氷解け去り 葦は角(つの)ぐむ
さては時ぞと 思うあやにく
今日も昨日も 雪の空
今日も昨日も 雪の空
を歌いながら、「葦は角ぐむ」「思うあやにく」とはどういう意味だったのか、という
疑問がわいてきてしまった。子供の頃、この意味を分かった上で歌っていたのだろうか。
つまり、文語調の言葉の「語彙」について「もの忘れ」をしたようなのである。この文語
調の心地よい唱歌は口ずさんでいるだけで「いい歌だなァ」と感じるので今となっては意
味など分からなくても良いのだが、それでも思い出さずには心の収拾がつかない。
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春とは名ばかりで 吹く風は寒い
谷のうぐいすは 歌おう(さえずろう)としているが
まだ春は来ていない(さえずる季節ではない)と声も立てない
氷は解けて無くなり 葦は芽吹いている
さあ、春が来たぞ(そろそろ田植えの季節がやってきた)と思ったら
あいにく、今日も昨日も 雪の空だ
「角ぐむ」は葦が芽吹くとき「角」が出るような形に見えることから、葦が芽吹くこと
を「角ぐむ」と表現したもの。「思うあやにく」はそう思ったら「あいにく」雪の空だ
ったという意味。
歌の方は、
「時にあらずと 声も立てず」が2回つつく。
2番も「今日も昨日も 雪の空」が2回つづく。
短絡的な言い方をすると、このように一定のリズム(韻律)に則って書かれた文を韻文
というらしいのだが、その韻文の文体の一つで、物事を羅列に描写し、事物の名前を列
挙する特徴がある文を「賦」といい、子供の頃よく歌った「かぞえ歌」が「賦」であるという。
文語調の語彙の「もの忘れ」はこれで解消出来ただろうか。意味不明でも、とにかく
文語調の歌はリズム感があってとても心地よい。しかし、意味が即座に分からない世代
が多くなると、やはり歌は歌われなくなるのだろうか、と心配になる。
「早春賦」は作詞家吉丸一昌さん(東京音大、今の東京芸大の教授)が春の到来が待ち
遠しい安曇野をイメージして書いたものだそうだが、昭和59年に多くの人によって
穂高町の穂高川土手沿いに「早春賦」の「碑」がたてられている。私も行ったことがあ
るが、そこからあまり遠くいない所に多くの観光客が立ち寄る大王わさび農場がある。
久しぶりにハーモニカ演奏によるすばらしい唱歌を聞いて歌って思うことしきりである。
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