悠々time・・・はなしの海     

大学院であまり役に立ちそうもない勉強をしたり、陶芸、歌舞伎・能、カメラ、ときどき八ヶ岳で畑仕事、60代最後半です。

棉(ワタ)を「育て、つむいで、着る、和綿」展

2010-03-29 23:05:09 | 自然
               


      <穂積由利子さんの  育てて つむいで 着る 「和綿」展>

           2010年3月27日(土)28日(日)
         
         流山市の利根運河の土手沿い 東武野田線運河駅の近く

           蔵の「ギャラリー平左衛門」で開催された。

      竹林に囲まれた 蔵のギャラリーは それだけで絵になる洒落た展示場だが
      併設の明るい茶房が さらに ひとときの 憩いを 醸し出す。


棉つむぎびと<穂積由利子>さん

わたつむぎびとは流山市在住、 数年前までスイス、カナダにご主人の研究に寄り添って
25年間も住んでいた方で ご本人の栞りによると 2007年に和棉に出会い 以来 綿
を 育て つむぎ 編んで 着る ことに挑戦しているという。

わたしも野菜の無農薬自然栽培に挑戦して 苦闘した経験があるので 日本の綿の自給
率が0%であると聞けば 和綿の栽培もさぞや大変であろうと 独り合点したが 農薬
は必要としないと聞くと 首をかしげるようなうれしさだが 自給率0%ということは
育て方を熟知している方が少ないということだから その入り口を見つける必要があった。


<棉栽培への入り口>

穂積由利子さんの その入り口が すばらしい。流山市には「おおたかの森駅」という
つくばエクスプレスの駅がある。この周辺には「おおたか」が住んでいて近くにおおたか
の森がある。しかし 開発によって おおたかの森周辺は街に変貌しつつあり 森がほんの
わずか 残っているだけになってしまった。おおたかは活動半径が広いので 森だけちょ
こんと残しても生きていけないと思うのだが 開発の誘惑は 駅名だけ残して 森と名の
つく大きな林を残してどんどん進行している。
      

この現状を心配しいる多くの市民が 開発の狭間で 残ったおおたかが何とか住めるよう
な森と 森を囲む周辺を維持しようと いろいろな活動をしている。

穂積由利子さんも オオタカのえさ場となる緑を守るために わたしにどんなことができるだ
ろうか と考えていた。そのとき 「きものという農業」(中谷比佐子著)という本に出会った。

感謝の言葉 という彼女の栞りに書いてあるのだが その本の中に 「農薬を必要としない
日本の棉」という小見出しがあり そこに 鴨川で日本の棉を育てている田畑 健氏(鴨川
和棉農園代表)の写真があり すぐに電話した と書いてある。

おおたかの森周辺で そこに住む鳥たちのために その森を助ける川辺は江戸川沿いと
利根運河沿いと思われるが この両河川周辺にはまだ畑も多く残っており特に利根運河
の川辺の周辺には自然の感触が残っている。

和棉の栽培には畑が必要となる。蔵の「ギャラリー平左衛門」の当主はこの周辺の地主さん
と聞くが 棉の栽培に必要な畑の支援を得て 農薬を必要としない棉を育てる挑戦が始まった。 




蔵の「ギャラリー平左衛門」の入り口  
  


入り口から入ってきて振り向いた光景
 

  

左側は竹林 正面が茶房 



                           
「ギャラリー平左衛門」の正面入り口





ギャラリーの中 和綿で編んだものが飾ってある  




棉畑から採れた綿の見本  


 

棉くりの実演スペース 




穂積由利子さんが実演して説明しているところ
棉くり機を使わないで 右手につかんだ綿を
左手の棒に絡ませていく くり方を実演していただいた
           




テーブルの上にのっている棉は 一番左側が棉の木から           
採ったばかりの種がついた棉 くり機で種を取り 棉をくる
毎にだんだん白く大きくなる 右側の大きな形の綿は真っ白で
不思議なほど綿がふんわりしている 


                      



男もののセーターと棉くり機 
セーターは私も着せていただいた
何ともいえないふんわりした感触

                                   
                                            

<「棉」と「綿」>

種を含んでいる段階の「わた」は木偏の「棉」という字を書き 「棉」を梳いて種を取り
出してからも さらに「棉」を梳く作業を見せていただいたが 当初黒っぽい色の「棉」
だったものが梳く毎に白くなり ふんわりしてきて 大きくなる様は感動ものである。こ
の段階になったものを 糸偏の「綿」というのであろうか。



<綿をふんわり>

「棉」を叩くようにして梳いていくと あら不思議! 小さな棉が次第にふんわりした
綿に変化し、真っ白にふくれあがっていく様子は先ほども書いたが感動ものである。



<今回の展示会で知ったこと>

一番驚いたことは、日本の綿の自給率が0%であるということ。子供の頃から、直感的に
綿はインド、という思い込みはあったが、それでも、当然のことのように日本でもある
程度綿が生産されていると思っていた。子供の頃、綿の花を見た記憶があるが、あれは和
綿ではなく、外国のものだったのであろうか。太平洋戦争前はどうだったのであろうか。

(余談:今、「戦前」と書いた。思い直して「太平洋戦争前」と書き直した。先日ある
ところで、「戦前」といったら、若い人から 戦前っていつのことですかと聞かれた。
確かに遙か遠い出来事ではある。) 


万葉の時代はどうであったろうか。

「しらぬひ 筑紫の綿は 身につけて いまだは着ねど 暖けく見ゆ」

                  万葉集 第三巻 沙弥満誓



<自分自身に勉強になったこと>

 つむぐ・紡ぐ・錘ぐ という言葉
 紡錘(ぼうすい)、錘、つみ という言葉

もともと、紡ぐむとは、綿や繭から繊維を引き出して 縒(よ)りをかけて糸にする、糸を
つくるという意味に使われているが、紡錘(ぼうすい)というと、その糸の巻き取りに使
う道具のことだが、紡錘の錘という字はもともとは重りとか、分銅という意味で、これ
がなければうまく回転して糸を巻き取れない。

糸を紡ぐ作業と、糸によりをかけなが巻き取る作業(錘み)は一連の作業である
ということ、その道具を紡錘、錘、つみ、ということを知った。

穂積さんが手で、くるくる回して実演してくれたものは、ここでいう紡錘だが、綿飴の
棒のような、きりたんぽの棒のようなイメージだが、図鑑などで見ると大小様々あり、
古代から現代まで手で使うものはあまり変わってないように見える。今でもアンデス
などでは歩きながら手で紡錘を回しながら糸を作ったり、市場でくるくる回しながら
物を売っている光景を見かけるという。

こんな重要な道具を、きりたんぽや綿飴の棒にたとえて恐縮だが、糸を縒る、紡ぐのに
とても重要な役目の道具を「紡錘(ぼうすい)」「錘(すい)」「つみ」というのだと
いうことを知った。

大きな道具になると、はずみ車、紡錘車、スピンドルなどと呼ぶようだが、つむぎなが
ら よりをかけて、しかも細くしたり、太いままで巻きつけたり、ぽこっと少しイボみ
たいにしたまま縒りあげる楽しみが分かったような気がした。

このようなことに没頭、邁進出来るひとは幸せだナ、と思いつつ、オオタカが安心して
舞い降りてこれるようにがんばってください、穂積さん。



















「ギャラリー平左衛門」が本物の蔵だったときの屋根の飾りと思われる






竹林の中に見えるのはハンモック




利根運河。高い塔は水害時の見張り塔と利根運河交流会館





この川辺はさくらの名所、もうすぐ沢山の人がやってくる。

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