・わが目より涙流れて居たりけり鶴の頭は悲しきものを・
斎藤茂吉の「赤光」より。「悲しさ」を詠ったものだが、そこでなぜ鶴が出てくるのか。タンチョウ鶴か、ナベ鶴か。そんなことは関係ない。印象が鮮明に結ばれているからである。
「鶴の頭」と「悲しさ」。不思議なとりあわせだが、妙にマッチする。ここに詩が成立している。
「鶴の頭がなぜ悲しいのか」。理屈を言えばこうなるだろう。ただそんなこともどうでもいい。「空想派」と伊藤左千夫が呼んだのはこういう理由からであろう。アララギ内の古い同人たちから異論が発せられたのも、こういう歌風が原因であろうし、歌壇の内外で反響を呼んだのもこういう趣があったればこそであろう。
「君は写生の歌は苦手なようだな。」と長塚節が斎藤茂吉に言ったのもこういう傾向があればこそであっただろう。1908年(明治41年)の「塩原行」あたりから「写生歌になってきたようだ。」と茂吉自身は書き残しているが、「鶴の頭」の歌は1912年(大正元年)である。「塩原行」の一連より、こうした「空想的」な歌の方がよく知られている。とすれば、「写実派らしくないところ」が斎藤茂吉の魅力だったのかも知れない。
何とも逆説的である。
