『短歌』の「現代短歌の60年」は、リレー連載だが、5月号で最終回となった。その最終回の5月号と4月号が、「論じられた佐藤佐太郎」だった。島田幸典が執筆している。
僕が短歌を詠みはじめたのが1999年だから、それより前の歌壇の動向は、よくわからないことが多い。ここで改めて驚いたのは、戦後かなりの期間、佐藤佐太郎の評価がそう高くなかったことだ。
島田は述べる。
「純粋短歌論が前衛短歌の方法論と同じ水準で『現代』性を認められてきたとは言い難い。」
論拠は篠弘の評論「近代と現代のあいだ」で述べられている内容だ。
「篠弘は近代短歌の上限を(自然主義が問題化された)明治40年代に設定する一方、下限を新歌人集団に置いた。近藤芳美や宮柊二の方法・文体は戦前のそれと異なるところはなく、これにたいして方法論の確立や新しい文体の獲得は塚本・岡井によってなし遂げられ、ここに『現代の質』が認められるとの判断からである。」
このあと「佐藤佐太郎はどうなのか」という問いを投げかける。ここで驚いたのは、近藤芳美や宮柊二の、現代性が否定されていることだ。
近藤芳美や宮柊二の方法論や文体は現代的ではないのか。そうではないだろう。近藤芳美の方法論「新しい短歌とは今日有用な短歌」という視点に基いて、積極的に社会を素材とする方法論は、現代ならではのもので、近代短歌にはなかった。
また宮柊二の『山西省』など、戦争の実相をリアルに詠う方法論は、近代短歌では為しえなかったものだ。戦前は思想統制のもとにあり、宮のような方法論は不可能だった。
佐藤佐太郎の方法論も近代にはなかった。「純粋短歌論」の核心は「表現の限定」である。これは現代詩で、用いられている方法論だ。「表現の限定」とは簡単に言えば、無駄の省略。これは詩歌一般の方法論であり、短歌に於ける虚構を認めたのは、近代短歌にはなかった。文体も口語脈のものがあり、近代短歌との連続性は認められるものの、近代短歌とは差異がある。
佐藤佐太郎の「純粋短歌」の作風が成立したのは、戦後に刊行された『帰潮』。紛れもない現代短歌といえよう。
昨日の記事で「現代短歌の不作」を書いたが、その原因は二つほどあると思う。
第一は豊かな近代短歌の果実を吸収していないこと。20世紀末の『短歌研究』に「意外と大きい近代の磁場」という座談会がある。ここでは「近代短歌との断絶」を現代短歌の価値と認めている。だが芸術一般に言えるように、過去の成果と断絶したものなどない。ここに一つの勘違いがあったのだと思う。
第二。前衛短歌が現代短歌であることに間違いはないが、その前衛短歌の評価を「修辞の巧みさ」にのみ求め、「文体の新しさ」という作品のフォルムの問題としてだけ捉えたことに問題があるだろう。以前にも書いたが、文体とは作品のフォルム「外見」であって、コンテキスト「内容」ではない。これが無内容で、主題のない作品があふれてしまう原因となったのだ。このことは講談社学術文庫『寺山修司全歌集』の穂村弘の解説を読めばわかる。
穂村は文体論でしか寺山修司を語れない。内容の判断が出来ない。だから穂村の解説には、寺山修司の代表歌が一首もはいっていない。現代短歌を不作に追い込んだ原因はこのあたりにあるだろう。
近代短歌との断絶を強調したのは、明らかに誤りだった。「第二芸術論」に反駁するあまりの勇み足だったように思う。
