・葛の花 踏みしだかれて、色あたらし。この山道を行きし人あり・
「海やまのあひだ」1925年(大正14年刊)所収。1924年(大正13年作)。
旅の歌である。釈迢空は1921年(大正10年)の夏に沖縄を旅行し、さらにその帰途、博多から壱岐に渡って約半月滞在した折にできた作という。ひとりいく山道に鮮烈な色をにじませている葛の花を見出し、自分より先にこの道を行った人を思っている。
しかし飽くまで作者の感動の中心は「葛の花の色の鮮烈さ」にあるのであって、「色が新しいから今しがた通っていった人がある」に比重を置いたのではない。それを表すのが一首の中の句点(。)である。三句目に句点があり、結句には句点がないのもそれに由来するのだろう。こういう表記の工夫は石川啄木・一時期の土岐善麿をのぞいて従来なかったものだ。
この一首を詠んだとき、作者はアララギに籍を置いていたが、歌集出版の前年にはアララギを去り、「日光」創刊に参加している。
アララギに籍を置いていたといっても、1909年(明治42年)から「根岸短歌会」に出席するようになり、のちに「同人」となり選歌も担当しているから、一時的に籍を置いたという訳ではない。
しかし、国文学の素養があるかといって、同人・選者に推されたという経緯があり、もともとは服部躬治に入門していたなど、ほかの「アララギ」の同人とは違っていた。
区切れ、主導音が二つあるなど、独特かつ複雑な歌風だった。(吉田精一著「日本の詩歌の伝統」)
アララギは確かに「明治の新風」であったが、新風がいつまでも新風であるとは限らない。古典和歌がその時代の「現代短歌」であったように、作風や言葉の遣い方が「公式化」すれば、「旧守的」になる。これを岡井隆は「ルールの一人歩き」と呼ぶが、釈迢空の作品の表記の仕方も「新を求めて」のことであって、アララギの「表記のルール」からはみ出したものだったのだろう。釈迢空がアララギを去った理由のひとつにこのことがあったやも知れぬ。
なお、釈迢空のもう一つの顔、折口信夫の民俗学は柳田国男のそれと違い、折口史学と呼ばれるものは津田左右吉のそれとも違う。その辺りのユニークさが短歌にも表れているのだろう。折口史学の柱の一つに、邪馬台国や古代日本と朝鮮半島の関係があるから、博多や壱岐を訪れたのも、その関係だったのかも知れない。
「葛の花・・・」の歌を読むと、山深く分け入っていく旅人の草鞋の音が聞こえてくるようである。この作品の魅力はその辺りにもあるのではないか。
また、釈迢空の弟子の岡野弘彦に師事した人の話によると、
「事実を表現して、そこに油が浮くように抒情を表現するのが、写生である。」
と岡野弘彦が言ったそうだから、釈迢空の「写生論」も独自のものだったのだろう。