「常識的な考えというものは、時代に制約されるもので、物事の判断基準とはならない。< ことわざ >がいい例だ。」
学生時代に聞いたある哲学者の講演内容にこんな言葉があった。確かにそういう面はあろう。戦国時代の下剋上の常識は江戸時代には通用しなかったし、江戸時代の「士農工商」の身分秩序の常識は現代社会では時代錯誤である。
その哲学者が「ことわざ」を例に出したのには、次のような理由があった。
「< 袖振り合うのも他生の縁 >とは人間関係を大切にしようという意味。< 人を見たら泥棒と思え >とは他人を信用するなという意味。< ことわざ >の多くは正反対の意味をもつものが多く、その時々によって使い分けられる。これほどあてにならぬものはない。」
「虎穴に入らずんば虎児を得ず」と「念には念をいれよ」。「三度目の正直」と「二度あることは三度ある」。正反対の意味をもつ「ことわざ」を挙げればきりがない。社会科学などでは厳密に概念規定をし、その上で立論していく。曖昧な語を用いればたちまち論駁の対象となる。「ことわざ」のような曖昧さは許されない。
しかし、社会生活一般を考えた場合、「ことわざ」はそんなに捨てたものではないと思う。
例えば、子どもがわがまなな「おねだり」をしたとき、
「隣の芝生は青いっていうでしょ。」とひとこと言えばすむ場合もあろう。ただし語彙の豊富な生活環境が前提だが。(「居直るな」と叱って、「居直るって何?」と言われ閉口したことがある。)
「ことわざ」には「寄らば大樹の陰」「郷に入っては郷に従え」など、個人を縛る傾向の強いものも多い。また比喩や引用と同じく、使い方によって恣意的な使い方になるが場合もある。意味が曖昧なだけに、社会科学・法律などの分野には馴染まないことも自明だ。また「現代の常識は必ずしも未来の常識にあらず」という問題もある。
しかし、何百年も続いてきた「ことわざ」には、やはり価値がある。微妙な使い分けによって人間関係を滑らかにする働き、含蓄の深さ。
少なくとも日本語を豊かにするものであることは確かなようである。