岩田亨の短歌工房 -斎藤茂吉・佐藤佐太郎・尾崎左永子・短歌・日本語-

短歌・日本語・斎藤茂吉・佐藤佐太郎・尾崎左永子・社会・歴史について考える

詩における固有名詞・・・校歌の歌詞を考える

2009年08月09日 00時22分47秒 | 多摩高20期同窓会
小学校・中学校・高校・大学と4曲の校歌を、わが校歌として歌ってきた。それぞれ特徴があって趣もあるのだが、人前で歌うのは少し気恥ずかしい。理由は、歌詞のなかに校名と地名が入っているからだ。地名や校名といった固有名詞は、ご本人には大変懐かしいものだが、赤の他人にとっては、はっきり言ってどうでもいいもの。理屈をこねれば、固有名詞には普遍性がないのだ。

 その中で、僕にとって高校の校歌だけはかなり印象が違う。歌詞のなかに地名も校名も入っていないのだ。はじめの二小節は情景描写だ。

   緑の丘の 連なる空に
   雲白く  浮かび輝く

次の二小節が心情の吐露である。

   思い豊かに  呼びかけ歌え
   はるかな夢を 憧れを

7音を基調に、2か所だけ5音。7・5調で何とも優雅だ。今は勿論、頑丈な堤防の外側だが、多摩川の古い自然堤防の内側の旧河川敷にある学校だから、まことに相応しいといえる。(そういえばやけに埃っぽかった。)

 ここまでだと誰も校歌とは思わない。
「いい歌ですねえ。何の歌です?」などと言われたりする。

 校歌らしいところといえばコーダと呼ばれるサビの部分だけ。しかしそれでも、固有名詞は出てこない。

   誇れよ いざともに われらが母校

最後が7音で終っているところが何ともいえない味があるが、高校名はついに出ないで曲は終わる。これではどこの学校か分からない。格調があり、かつ大変スマートだ。

 小学校の校歌は、後半に町の名前と学校名が出てきて、「われらが母校」とダメを押す。

 中学校の校歌は、冒頭に地名がご丁寧にふたつもでてくる。「わが学び舎」というフレーズと、後半には「富士山」まででてくる。

 大学の校歌たるや、最後に校名を7回も連呼する。さきほどの高校の校歌とは全く対照的にコッテリしている。

 同窓会などでは、校歌を歌う。酒がはいっているせいか、コッテリした大学の校歌のほうが盛り上がる。スマートな高校の校歌では少し物足りない。料理にも酒にあうものとそうでないものがある、などと言っては作詞者に失礼だろうか。



 短歌を詠む場合も固有名詞の扱いが難しい。効果のある場合も逆の場合もある。

 佐藤佐太郎の短歌は、めったに固有名詞が出てこない。

・夕光のなかにまぶしく花みちてしだれ桜は輝を垂る・

 京都二条城という詞書がなければ、二条城とは分からない。だから、しだれ柳の輝くさまを見たことのある人には等しく感動が伝わる。固有名詞がないことが効果をあげている。

 それに対して、

・冬山の青岸渡寺の庭にいでて風にかたむく那智の滝みゆ・

という作品は寺と滝の名前が二つも出てくる。佐太郎の短歌としては珍しいほうだが、「青岸渡寺」は、サ行の音と二つの濁音・オ段の音が勇壮な語感をだし、「那智の滝」という語と相まって、まことに効果的である。

 短歌の批評会で固有名詞が効いているかどうか議論になる。判断はケース・バイ・ケースである。とすると、校名を7回も連呼する大学の校歌も、「忘れ得ぬ」という効果が案外あるのかも知れない。



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