岩田亨の短歌工房 -斎藤茂吉・佐藤佐太郎・尾崎左永子・短歌・日本語-

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マルクスの天使の歌:玉城徹の短歌

2011年03月23日 23時59分59秒 | 私が選んだ近現代の短歌
・マルクスの天使となりて羽ばたけるかの企業主の首を思はむ・

「蒼耳」所収。1991年(平成3年)刊。

「マルクスの天使」「かの企業主」とはマルクスの盟友、フリードリヒ・エンゲルスのこと。「資本論」第一巻はマルクス自身が刊行したが、二巻・三巻と四巻と言われる「剰余価値学説史」の刊行は、マルクスの残した草稿をもとにエンゲルスがまとめたものによっている。

 貧乏のどん底で「資本論」執筆に取り組んだマルクスを金銭的に援助するのみならず、マルクスとの共著、マルクス主義の重要論文、文献(これらもマルクスと頻繁に書簡をかわし、事実上の共著ともいえる)を残し、第一インターナショナルではマルクスとともに地方オルグの責任者に名を連ねた。

 マルクス亡きあとの第二インターナショナルの指導にあたった。「全集」も「マルクス・エンゲルス全集」であるのは世に知られている。

 作者の玉城徹は「前衛短歌は意匠の新しさにすぎない。」と公然と言ったことで知られる。(「短歌現代」2010年11月号・水野昌雄論文)またその著書「短歌実作の部屋」のなかでも、世に言う難解歌を指して、「これは難解というより朦朧体と評すべきであろうか」とし、次のように言う。

「正岡子規にはじまる近代写生主義の重要な遺産は、短歌を中世的朦朧主義から救い出して、それを、現実感覚の組織に適合するように改造した点にあると、わたしは思っている。」(「短歌実作の部屋」1983年・昭和58年刊)

 これは非常に重要な指摘で、表現の曖昧さと詩的表現の暗示性は違うのだという明確な意思表明である。この発言は前衛短歌の全盛のころだから、大いに注目してよいものだと思う。

 確かに斎藤茂吉もかく言う。

「鷗外は印象派を感銘派と訳し、それを< 写生派 >と云ってゐるのである。」(岩波文庫「斎藤茂吉歌論集」294ページ)

これは玉城徹の指摘と軌を一にする。

 しかし冒頭の玉城の作品は「前衛短歌的」(というより塚本邦雄的)なのである。

 いくつか理由があるが、一つは「喩」の用法である。「マルクスの天使」「かの企業主」というのは、詩的暗示というより、塚本的「暗喩」に近い。

 もう一つはどんな権威をも認めないという姿勢。これも塚本的である。

 さらに「短歌研究」2011年2月号で島田修三が言うように「わからない歌」なのである。印象も鮮明ではない。作者の意図ではフリードリッヒ・エンゲルスを皮肉った歌にしたかったようだが、これも伝わってこない。

「前衛短歌は意匠(=外見の姿かたち)の新しさに過ぎない」と批判した玉城徹が、「塚本的」「曖昧=朦朧体」な作品を残したのは何とも皮肉である。玉城徹もまた時代の子である。

 自覚するとしないとにかかわらず、前衛短歌、なかんずく塚本邦雄の影響を受けていたのだろう。



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