岩田亨の短歌工房 -斎藤茂吉・佐藤佐太郎・尾崎左永子・短歌・日本語-

短歌・日本語・斎藤茂吉・佐藤佐太郎・尾崎左永子・社会・歴史について考える

砂の歌:斎藤茂吉の短歌

2011年12月19日 23時59分59秒 | 斎藤茂吉の短歌を読む
・石のべの乾ける砂のごとくにも吾(われ)もありなむあはれこの砂・

「暁紅」所収。1936年(昭和11年)作。

 まず語意から。

「石のべに」=「石」+「の(助詞)」+「べ(=・・・のそば、・・・のほとり:名詞」+「に(助詞)」。総合すると「石の近くに」「石のそばに」という意味になる。「べ」は「窓辺・まどべ」の「べ」と言えばわかりやすいだろう。「窓辺」は「窓の近く」或いは「窓のそば」。

 歌意。「石のそばに/乾いた砂の/ようにして/俺もいるのか/しみじみと砂」。口語にしてみた。どうだろう。すべて口語にすると、何だか軽くなる。

 軽いというのは短歌にとって致命的だと僕は思う。短歌は5句31音と短い。短いなかに、象徴・暗示・物語性・思想性などを入れなければならない。何をどう読むかが、その人の思想であり、軽さは思想の薄さを表す。

 なぜそうこだわるか。短歌は文学だからだ。遊び、ごろあわせは意味がない。明治以前の、公家のお遊びに逆戻りだ。文学性がないから、小説家は短歌には目もくれない。詩人は面白がって、興味本位に時々とり上げるだけだ。

 さてこの一首。非常に象徴的・物語的だ。作者自身の生を砂に例えている。砂はただの砂ではなく茂吉の分身だ。それも乾いた砂。おそらく乾き切った砂だろう。茂吉の心も乾いている。砂は小さい。小さく孤独である。

 とまあ簡単に言えばこうなる。佐藤佐太郎「茂吉秀歌・下」では、簡単に背景のみが述べられている。

「毎年箱根の歌が多くあるが、昭和11年には特に多く、ざっと数えて136首ある。どれも自在で歌調のこころよいのは、この作者の特徴だが、他は省略に従うこととして数首を録する。」

 茂吉にすればこの作品のような表現は出来てあたり前、と佐太郎は判断したのだろう。ところが面白いことに塚本邦雄がこの作品を激賞している。

「由来、山荘に籠る時は通例独居であり、深沈たる思ひに耽り、また俗を離れつつなほ世間一般を鳥瞰し、あるいは森林渓谷を楽しむ等、主題は多岐、文体は自在な作に恵まれた。・・・(思い=思想・思索、主題が、文体の前提となっているのに注意。決して逆ではない。)・・・この『箱根』は山荘ではなく、箱根五段の温泉に遊んでの詠ではあるが、自然の環境はほぼ等しい。そしてその時は、峡谷の石に寄せての幾つかの秀作を見た。」

「茂吉にとっての砂とは、人の世における彼個人と、大自然中の一粒の礦物とでもいふ、素朴な照応に過ぎず、『砂のごとくに吾ありなむか』とは、逆はず、自然に、微かな生を経ようとの、諦観に近い自戒・自愛の弁ではなかったらうか。」(塚本邦雄著「茂吉秀歌・白桃~のぼり路・百首」)

 塚本邦雄はもちろん茂吉門下ではない。だが時に弟子筋の歌人以上に茂吉の理解者であることに驚くのである。それは岡井隆も同じである。岡井は「人間茂吉を描きたい」と今後のことについて述べているが、どういう著作になるか密かに期待している。



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