岩田亨の短歌工房 -斎藤茂吉・佐藤佐太郎・尾崎左永子・短歌・日本語-

短歌・日本語・斎藤茂吉・佐藤佐太郎・尾崎左永子・社会・歴史について考える

寒き日の湖の歌:佐藤佐太郎の短歌

2011年12月20日 23時59分59秒 | 佐藤佐太郎の短歌を読む
・みづうみの靄(もや)たちなびく寒き日に水遠くして山のくれなゐ・

「群丘」所収。1961年(昭和36年)作。


 佐太郎の自註。

「中禅寺湖方面からは水蒸気がたって、対岸の紅葉が赤く見えていた。『水とおくして』という下句が気に入っている。」(「作歌の足跡-海雲・自註-」)

 幻想的な作品である。だが幻想的なものを狙ったのではなく、目の前の景の描写が的確なのである。

 中禅寺湖の湖面から「靄」がたっている。科学的に言えば、水蒸気があがってすぐに凝結しているのだが、そういう時の湖は幻想的である。日本画のモチーフになりそうな場面だが、その向こうに紅葉が赤い。それを「山のくれなゐ」と捉えた。たしか東山魁夷の作品にこのようなものがあった。

 茂吉は「象徴・幻想・神秘。これらは『写生』をつきつめていけば、自ずからあらわれるものだ」と言った(「短歌に於ける写生の説」:原文は「ひたぶる、直し、自然、象徴、単純化、流露などの実際的な活動は皆この『写生』から分派せられるものである」)が、これもその例といっていいだろう。まさに「何のカラクリもない」(「作歌40年」)作品だ。このあたりに、茂吉から佐太郎への流れ、継承の跡が見られる。

 また「水遠くして」で遠近感が出ており、「靄たちなびく」は作者の心理を投影しているようにも思う。主観が巧みにあらわされていると言える。これも茂吉にもあった傾向を一歩進めた結果であると言える。

「目に見えるものを< 写 >すことは、うまく< 写 >すことができれば、作者の感情だけでなく、作者の生活の一端や、作者の季節感や、その他さまざまの< 目に見えないもの >を間接に< 写 >すことに、結果として、なるのである。」(岡井隆「短歌の世界」)

 なお奥日光の一連には、次のようなものもある。

・香ぐはしき原をよこぎる路あれば秋の西日を受けつつ歩む・(小田代原)

・地獄沢みづの源ゆたかにて入り来し峡(かひ)のすぐに窮(きわま)る・

・低山(ひくやま)の日影はのびて原おほふ刻(とき)の映りのおもむろにして・

・おはよそに原かげりゆき日のあたる遠き林はもみじ明るし・




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