岩田亨の短歌工房 -斎藤茂吉・佐藤佐太郎・尾崎左永子・短歌・日本語-

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齊藤茂吉32歳:大根の葉に時雨のふる歌

2010年03月02日 23時59分59秒 | 斎藤茂吉の短歌を読む
・ゆふされば大根の葉にふる時雨いたく寂しく降りにけるかも・

 1914年(大正3年)作。「あらたま」所収。

 歌意はいたって簡単である。
まず上の句。「夕方になって大根の葉に時雨が降る」。下の句「(降るのが)たいへん寂しい様子であることよ」。

 上の句と下の句に「ふる=降る」が重複するが、これには意味がある。上の句が実景、下の句が作者の主観だからである。こうした主観を詠み込む手法は従来の根岸短歌会では珍しかった。島木赤彦でさえ、主観語を嫌った。「でさえ」というのは短歌の評価をめぐっての伊藤左千夫との対立の構図は、「伊藤左千夫VS島木赤彦・斎藤茂吉」だったからである。まして対立の原因は、赤彦の歌をめぐってのことだった。

 それはともかくこの一首、「星座の会」の尾崎主筆が何度となく引用する作品。その理由はおおよそ次のようなもの。

「若い頃は、大根の葉に時雨が降って何が面白いのかしらと思った。けれど、大根の葉と時雨のほかのもの、捨象されているものの大きさに気づいたとき、この歌のよさがわかった。」

 「星座」誌上で何度か記事になった。その通りだと僕も思う。だがもうひとつこの歌の魅力を挙げるなら、それは「茂吉ならではの感じ方」にある。

 西郷信綱は著書「斎藤茂吉」のなかで、「みちのくの農の子」と茂吉のことを呼んでいるが、まさに「みちのくの農の子」の感じ方だと僕は思うのだ。
 全体に冷ややかで東北の気候の厳しさを思わせる。大根の葉に着目したのは「農の視点」といっていいだろう。「ひややかに」という言葉をつかっていないにもかかわらず冷涼であり、「時雨の寂しく降るさま」が浮かんでくる。

 長塚節は「齊藤君と古泉君」とする一文のなかで、気候温暖な房州出身の古泉千樫が気候冷涼な出羽出身の齊藤茂吉の模倣をしていると述べたことがある。この長塚節の指摘には、当を得ていないという別の見解もあるが、この歌はまさに「農の子」の歌である。



 


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