・くれなゐの鉛筆きりてたまゆらは慎ましきかなわれのこころの (茂吉)
1912年(大正元年)作。「赤光」所収。1913年(大正2年)刊。
赤鉛筆をきった(削った)。その瞬間(=たまゆら)、「慎ましい」気持ちが湧いてきた。と、これがおおよその意味。
・草わかば色鉛筆の赤き粉のちるがいとしく寝て削るなり (白秋)
1910年(明治43年)作。「桐の花」所収。1913年(大正2年)刊。
草の上で、赤鉛筆の赤い粉が散った。それが「いとしく」て寝て削った。という意味。
「赤光」と「桐の花」はともに茂吉・白秋の第一歌集。刊行年が同じで、制作年もほぼ同じ。白秋が先に作歌し、茂吉はその2年後。
歌集発刊と同時に双方評判がよく、しばしば比較されたようで、茂吉は「白秋君の作品との類似性を指摘されるが・・・」と書き残している。「桐の花」が「赤光」の刺激となったと、飯島耕一はその著書「白秋と茂吉」のなかで玉城徹の見解を紹介している。
茂吉が白秋との競泳を試みた可能性が高いと僕は思っている。詠む対象は同じだが、詠む角度が違う。どこが違うかと言えばそれは抒情の質である。
茂吉の作品は「こころ慎まし」と表現されている。これを「しみじみ」ととっても、「敬虔(けいけん)な心地」ととっても、「悲しみをかみしめている」ととってもよい。詞書に「或る夜」とあるから、孤独感に近い感情だ。それを直接言わず暗示されているところに茂吉の特徴が出ている。「寂しい」と言わずに「寂しさ」ないしは「孤独感」をあらわしている。
それに対し白秋は「公園のひととき」「草に寝ころべ、草に寝ころべ」という詞書がある。「ちるがいとしく」は「なんとなくいじらしく思われる」(本林勝夫「現代短歌」)であるので、感傷的・甘美である。こういうセンチメンタリズムを「写実派」は避け、「印象鮮明」を目指す。
ところが皮肉にも、白秋の作品の方が「印象鮮明」である。その理由は「紅と緑」の色彩語にある。「鮮紅色と鮮やかな緑」は補色関係にあり、互いを際立たせる。
茂吉は「作歌四十年」のなかで代表作の自註をしているが、「赤鉛筆」のこの歌は紹介されていない。白秋の作品と比べて見劣りがすると思ったのではあるまいか。
「茂吉の歌はそのままを詠った。白秋は心を詠った。」という批評は少し違うと思う。抒情の質が異なり、白秋のほうが「色彩の印象が鮮明」という結果になったというところだろう。目指す表現方法の上下はない。(続く)
