オクトシティー正直村

おかしいな?変だな?と思った事を綴った駄文

自分の身体を傷つける行動の不可解

2007年12月07日 | Weblog


自分の身体は自分自身より他人から見られる部分のほうが多い。

 日常においては自分では両手、両足、胸から下の胴体を1カ所ずつ見るくらいしかできない。顔、頭、背中、お尻などは鏡を使わないと普通は見えない。しかし、他人はその人の全身を見ることができる。すなわち日常のほとんどは他人に見られていることになる。一生懸命おしゃれをしたり化粧をしたりするのは、自己満足もあるが、ほとんどが他人に見られるためである。そうであれば、おしゃれや化粧は他人にどうみられているかが重要な判断基準になると思うし、そうでなければならない。客観的な見方ができないとおしゃれも化粧も独りよがりの奇異な印象を与え、時には不快感や違和感をさえ覚え、落ち着きをなくし無用な混乱を招くこととなる。

若者の中に、茶髪、ピアス、過激化粧、ハデハデ衣装で闊歩しているのをよく見かけるが、

 この人達はどういう考えをもってこのような行動に出ているのか理解に苦しむ。少なくとも私には美的で清潔で理知的で好ましいものとは到底思えない。唖然とすることしきりである。別にやめろとは言わないが、そのように見られているという認識はもってほしい。「なにをやろうと勝手だろう」と反論されそうだが、一人の人間として扱われることを拒否し無視されシカトされることを望んでいるのなら「なにをやろうと勝手」だが、周りの一般的な普通の人達は、やはり人情として無視やシカトはできない。一人の人間として存在を認め理解しようとする。何が彼(または彼女)をそうさせているのか気になって仕方ない。

その心理を逆手にとって目立つためにわざとやっている行為であれば

 ある程度理解できるし、狙い通りに目的は達していると思われる。しかし、それほどまでして目立たないといけないのか、そんなことでしか存在感を主張できないのかと反対に惨めさと哀感を持ってしまう。そうやって目立っていることに満足して得意気になっている当人のことを思うと滑稽である。(こんな分析をしている変なオッサンも滑稽ではあるが・・・)

何も考えてなく、自分だけで満足し、

 ただ面白いからと遊び感覚で成り行きに任せてやっているだけかも知れない。周囲の反応を面白がっているだけかも知れない。芸能人にあこがれてやっているだけかも知れない。動物園の猿を好奇心から見ている観客か、馬鹿面の観客を面白がってみている猿山の猿か、どっちがどっちか知らないが、いずれもその真ん中には両者を隔てる大きな障壁がありそうだ。一時的な麻疹みたいなものでいずれかは直るのではあろうが、困ったものである。

しかし、ピアスやダイエット、エステなどのように

 自分の身体を犠牲にして思い通りに傷つけたり整形したりするのはあまり好ましいことではないと思う。自分の身体を「モノ」扱いすることは、命を粗末にする行為に通じるのではないか。眉毛を抜いたり、神経質に脱毛をしたり、茶髪にするのもその延長線上である。自分を改造して新しい自分を発見したいのはわかる気はするが、外見を変えるだけでは自分は変わらない。変わった気分になるかも知れないが、それは外見のこだわりを捨てただけで、内面から変わったわけではなく、望ましい方向に変わるとも思えない。

生来の自分の身体を大切にして、

 その良さを発見し、いい面をアピールするのは結構なことである。しかし、それは自分の持って生まれた体の中にあるのであって、他人のものを求め真似して改造してまでも手に入れるものではない。自分に自信を持つことだ。どこか別のところに理想の自分があるわけではない。

昔、体操をやっている女の子が近所にいて、

 運動会の会場で遠くから声をかけると、背筋をピンと伸ばして、胸を張って、横向きにこちらを向きながら左手を腰に右腕を高く上げて笑顔で手を振って応えてくれるのをまぶしい思いで見ていたことがある。体操の試技を始める前の動作である。いまだにその姿が目に浮かぶほどである。精練されたものは一挙手一投足がキラリと光っている。知性とウィットのある人は何気ない言葉にもキラリと光るものがある。追求すべきものは外見の見た目ではなく、内面の充実であろう。

ロック歌手やコメディアンやピエロが目立つ格好や行動をするのは納得できる。

 彼らはまず大衆の注目を集める必要がある。注目を集めできるだけ多くの大衆にアピールするのが仕事である。チンドン屋やサンドイッチマンも同様である。しかし、普通の人間が目的もなく目立つ格好や行動をして注目を集めても何にもならない。注目を集めて何かの芸を披露するわけでもなく気の利いた言葉を発するわけでもない。失望し期待がはずれてため息をつくだけである。

茶髪、ピアス、ダイエット、エステ、過激化粧、ハデハデ衣装などが

 違和感なく許されるのは人情の希薄な都会である。お互いに「何をやろうと自分の勝手」という風潮が蔓延していなければ、その違和感が気になって仕方がない。ピアスをあちこちに穿けている人に「なんで?」「どうして?」「痛いでしょう?」「だいじょうぶ?」という疑問を投げかけ、質問するのが普通の人情である。ピアスを穿けている人は会う人会う人にその疑問・質問にいちいち応答していたのでは面倒で仕方ないであろう。第一まともな答えができないであろう。このような人情がなくなったところに訳の解らない価値観が横行し、隣で人が殺されていても知らんぷりの世界が広がって行く。



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