オクトシティー正直村

おかしいな?変だな?と思った事を綴った駄文

経済政策

2013年01月20日 | Weblog

私は経済には疎くて、まして政策になると、ほとんど知識も経験もない。

 安倍政権になって、金融緩和と公共事業拡大が大胆に進められている。政治がやれることはこんなことしかないし、こんなことでもやらなければ日本の国は衰退するばかりらしい。しかし、過去を振り返ってみると、常にこんなことしかできなかった歴史に気づかされる。そして、これがこごとく失敗して現在に至っている。その度に期待感を持って拡大政策を打ち出すが、結果は借金の山を築くだけに終っている。少しは反省すべきであろうと素人ながら考える事仕切りである。今回は違うと言う期待感だけでは失敗は目に見えている。何かを考え直さなければならないと思う。

健全な精神は健全な肉体に宿る。

 健全な精神を目指して、健全な肉体を作るべくあらゆる方策を尽くすのだが、なかなか健全な精神は育たないと言うのが現在の状況ではないかと思う。体力が衰えて精神まで病んでしまっている人に、大量の栄養の摂取と痩せる原因を取り除いて大いに体力をつけるべく努力するが、なかなか体力が取り戻せないのが現状のようだ。何故だろうと考えてしまうが、どうやら栄養の摂取の方法と、条件撤廃のやり方がまずいのではないかと思えてきてしまう。いくら栄養を与えても摂取できなければ意味ないし、条件を撤廃しても活力を生み出さないのであれば意味がない。経済政策に投入する資金の規模や支援策そのもののやり方が悪いようである。

身体の機能で考えてみたら解り易いかも知れない。

 今巷で流行のサプリメントや補助食品を大量に投与しても健康になるわけではないし、ほとんどが体内に留まらず排出されてしまう。反対に大量の栄養素は身体に害を及ぼす場合がある。もっと効き目を期待して医薬品を投与する場合も、病状が明らかにならないと処方箋も書けないし、投薬が無駄になるか副作用で身体に害を及ぼすことになる。結局はサプリメントや医薬品を投与することが目的ではなく、病状を改善して健康な身体を取り戻すことである。それなのに、日本国政府の経済政策は「投与」することが目的化しているのではないかと思えてしまう。日本経済に対する診断書は一体どうなっているんだろう。何が原因で、どのような対処をしなければならないんだろう。

身体の洋服を大きくすれば身体が大きくなる訳でもない。

 身体が大きくなることを期待してより大きな洋服を準備してもあまり意味がない。政府のやることは、これに近い気もする。別に身体は大きくならなくていいのである。現在のままでもいいから健全な肉体を取り戻すことが肝要である。それは身体の大きさではないような気がする。いくら大きくなってもいいんですよ、まずは成長率2%を目標に大きくなってください。というのは、本来の目的から外れている気がする。しかし、政府ができるのは「頑張れ!!」と掛け声をかけて声援するだけなのかなぁ、とも思ってしまう。それにしても、それだけに終らせてしまってはならない、過去の反省に基づいて何とか実効性のある政策になることを祈っている。

本来、経済政策の主役は当事者である経済主体である。

 この経済主体が改革をしないと何も前進しない。求められるのは「改革」であり「改善」ではない。「改革」と「改善」の違いは、「改革」はあるステージからもうひとつ上のステージへステップアップすることで、「改善」とは、地道にひとつずつ積み上げて改良してゆくことである。「改革」には本来金がかからない。意識を改革することによって同じことをやっても格段のステップアップができる。「改善」は費用対効果でさらなる経費の削減を狙ったものである。経費の削減はコストダウンにはつながるが、これで経済が活性化するとはあまり期待できない。コストは同じまたはそれ以上でもいいので、要求されているのは「改革」で、しかも形をいじくりまわすだけではなく、意識の改革こそ求められるものだと思う。これが変わらない限りいつまでたっても日本社会の低迷から脱することはできないと思う。

昨今の日本の社会情勢を眺めていると、戦うことを忘れている気がする。

 例えば、近いところで、学校のイジメ問題である。何が問題かというと、イジメそのものはさておいて、学校側、教育委員会側の対応のまずさである。はっきり言って世間の非難から逃げている。世間と初めから戦おうとしていないで、自分達に何の責任があるのかも明確にしないで原因と対策の分析もなくただ謝罪するばかりである。見方によっては世間(マスメディア)に怯えているのではないかと言う印象さえ持つ。これが教育者の代表のやることかと呆れてしまう。そして、これを日本全国の学生や生徒が見ているのである。困難に立ち向かった時の対処法のモデルを見せ付けていることになる。どう考えてもお手本になる行動とはいえないし、はっきり言って恥ずかしい。これから先、先生や教師はどんな顔をして教育したらいいのか悩むし、教育の前途は開けないと思う。

みんな同じであることが民主主義ではない。

 個人個人の能力を遺憾なく発揮して正々堂々と自由に競争し戦える場を作ってやるのが民主主義である。「私はこう思う」「それは間違ってる」「私の意見はこうだ」「原因はこうだった」「私達はこのように対処していた」「問題点はこれだと思う」「今後の対策としてはこう考えている」「引き続き我々の掲げた目標達成に努力する」と教育者の立場として言えないんだろうかと思ってしまう。言えないところに問題があるのだろうが、これそのものが「意識改革」であると思う。何も金はかからないのである。これが少しでも主張できるようになれば、確実に瞬時にステップアップできる。世間(マスメディア)に怯えててはいけないのである。怯えれば怯えるほど、逃げれば逃げるほど徹底して非情に攻撃してくるのが世間(マスメディア)の特性でもある。古風な前時代的な日本流から脱却して少しは学習して前進してもらいたいものである。


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