オクトシティー正直村

おかしいな?変だな?と思った事を綴った駄文

憲法改正論議

2006年05月15日 | Weblog


憲法改正論議が沸き起こっている。

 基本的に第2次世界大戦後、占領下で起草された日本国憲法は一度も改正されることなく現在に至っている。反対に軍国主義の旧体制に戻らない歯止めとして容易に改正できない仕組みで作られた憲法でもある。戦後60年以上が経とうとしているが、戦後のドサクサに紛れたように作られた日本国憲法を未だに改正もしていないのは異常といえば異常であり、それでも済んでいる日本の国そのものが異常だとも言える。

日本国憲法は全く変わっていないが、

 日本の国は劇的に変わっている。 憲法そのものは変えずに解釈だけを変えていって現在に至っている。ずいぶんと変わったものだ。よく引き合いに出されるのが軍事であるが、政治全般においても無視されたり曲解されたりされている部分が多々ある。「国政が国民の厳粛な信託による」「国政の権威は国民に由来する」「国政の権力は国民の代表者が行使する」「国政の福利は国民が享受する」などが人類普遍の原理として記述されているが、現実を眺めてみると、総論賛成各論反対が跋扈し、政治家は地域または特定団体の代表としてしか機能しておらず、代表者としての責任ある権力の行使もおぼつかないし、国政の失敗による尻拭いを国民に押し付けている。

国を支えているのは憲法ではなくて憲法の基に集う日本国民である。

 憲法を変えなくても国民が変われば国は変わるし、憲法を変えることによって国を変えようと思うのは危険でもある。戦後の日本の国の劇的な変化は国民がいい意味でも悪い意味でも変わってきたのだと思う。我々がなさなければならないのは善良な国民を育てることである。しかし、国政が国民を育てるわけではないし、国政が国民に道徳教育を始めたら危険信号だと思うべきである。国政はあくまで国民の代表機関としての事務を行うだけである。昔の天皇や将軍様とは全く似て非なるものであり、国民の心には入り込めないし、せいぜい環境作りや支援策を施す程度である。

それでは、国を変えるにはどうしたらいいのだろう。

 国を変えるのは「国民」である。「国民」が変わらないと国は変わらない。日本の伝統と文化を築いてきたのは国政ではない国民である。伝統と文化を担うのも「国民」であり、これを担う若者を育てていくのも国民である。学校の先生も、学者さんも、もの造りの達人も、芸術家も、お医者さんも、そして政治家も個々人は「日本国民」である。立派な日本国民が育たない限り日本の将来を牽引し支える人達がいなくなってしまう。「日本国民」はそのことを忘れてしまっている。なんでもかんでも政治のせい、社会のせい、環境のせいにしてしまって個々人が自分でやるべきことを忘れて、自分だけの世界に入り込んでしまっている。日本国も郷土も家族も下手をすると目の前の他人であっても思いやる心さえ持たない人達が増殖している。

教育基本法が改正になるという。

 1947年(昭和22年)に制定されたものである。教育基本法はずっと変わっていなかったはずなのに、教育のやり方は驚くほど変わってしまっている。我々が受けた小・中・高の教育と今の教育は雲泥の差である。我々のころは体罰は日常茶飯事であり、生徒間のいじめ(昔はけんかだった)もたくさんあった。期末試験の結果は順位と点数と名前を廊下に張り出して競争心を高めていた。わけのわからない行動をする名物先生もチラホラいたし、生徒のいたずらもたくさんあった。運動会では1等2等3等で賞品に差があったし、3等までしか表彰されなかったし参加賞なんてなかった。学校の行事には地域の人達が総出で参加し大いに盛り上がった(酒も入った)。学校が終わるとガキ大将を中心に徒党を組んであちこちで遊びまわっていた。そのような教育を受けた人達が戦後日本の発展を立派に支えてきたのである。

今の教育のやり方には問題があるようである。

 教育基本法は変わっていないのに昔に比べて教育がだめになってしまった。原因の大本はやはり教師だろう。全ての教師が悪いとは言わないが、やはり教育現場の教師が変わってしまっているのだろう。教育基本法は変わっていないので、教師を変えてしまった原因は別にあると思う。私には判らないが現場の人達は判っているはずである。ぜひその根本の原因を取り除いて欲しいものである。教育基本法を変えれば欠陥が取り除かれると考えるのは早計なようである。私見ではあるが、是非現場の教師が自信と誇りを取り戻して欲しいと思うし、自信と誇りが持てるような環境を作って欲しいと思う。規制でがんじがらめにしないで現場の教師が考えたとおりの教育ができることを望むものである。

間違ったことも教育すべきである。

 「間違ったことは教育してはならない」と頑なに思い込んでいるが、間違いを間違いと気付く能力も育てる必要がある。そのためには、間違いも含めて教師が全身全霊で生徒に教育できる場が必要だと思う。生徒はしっかりと自分で教育内容を分別していいものは取り入れ、悪いものは反面教師として直してゆくし、そのようなしっかりした判断能力をつけさせなければならないと思う。絶対正しいことしか教えないし、絶対正しいからその通りにやりなさいと生徒に強制する教育は根本から間違っている。たとえ教育基本法や教育実施要領で定められているからといって「絶対正しい」ものは存在し得ないし、規則どおりに教育していたのでは永久に本質を教えることはできない。何故そこの部分をがんじがらめに規定してしまうのか理解できない。いろいろな考え方の教師がいて教育のやり方も千差万別なはずである。試験の点数を稼ぐだけが教育ではない。

日本国憲法や教育基本法を改正するのに反対はしない。

 しかし、改正することによって新たな強制を国民に課すことがあってはならないと思う。戦後60年以上経過した経年変化で変えるべきところは変えなければならないが、それ以外はほとんど前例を踏襲して何も問題ない。憲法や教育基本法を改正することによって国の進むべき方向を変えようと画策するのは見当違いである。これまでも解釈の範囲で実施してきた部分が多々あり、その部分が解釈だけでは納まりきれなくなっている。憲法や教育基本法は変わっていないが、日本の国はすでに劇的に変化している。その変化に対応して憲法や教育基本法を改正するだけのことである。


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