人間が創り出したものは数々あるが、自然物と人工物の差は何だろう。
つくづく考えてみるに、人工物は閉ざされた時間と空間で創られたものであり、自然物は無限の時間と空間に向かって創られたものである。科学が発達し技術が向上し人間は様々な自然物に手を加えているが、それは限られた閉ざされた時間と空間の中で可能なことであり、解放された無限の時間と空間の中ではその価値さえ不明でもしかしたら害を及ぼしているかどうかもわからないのが実体ではないかと思う。それが証拠に人間の創りだしたものは閉ざされた時間と空間でしか意味をなさず、これが解放された時間と空間に影響を及ぼすと自然に害を及ぼしていることになる。実際はすでに害を及ぼしているのだが、人間がそれに気づいていない部分がほとんどである。
閉ざされた時間と空間の中で人工物を創り上げ自然界に生み出しているが、
その責任は誰が取るのだろう。製造物責任:PL(product liability)という言葉があり、日本でも1995年に製造物責任法なるものが施行されたが、これは人間対人間の責任関係であり、自然対人間の責任というわけではない。人間以外の生物対人間の責任と言ってもいいし、もっと話を大きくすれば地球人対その他の宇宙生命体と言ってもいい。そして時間的には人間が創り出した法律とは関係ない永久的な責任でもある。
人間が創りだしたものに対して人間が安全性を保障するが、
これも閉ざされた時間と空間の中でのことである。自然の連鎖反応は無限大から無限小へ、過去から未来へつながっている。その一部分を切り取って安全性を保障してもどんな意味があるというのだろう。過去に人間はこのようにして「安全性」を保障してきたが、ことごとくそれが間違っていた歴史を繰り返してきたのである。人間が生きるために必要な最低限の影響を自然に対して強いることは許されるが、それ以上の計り知れない影響を与えることは例え人間に可能であっても許されることではないし無責任でもある。そして果たしてそのような自然の摂理に反することをやる必要があるのかをよぉ~く考える必要があると思う。
科学は閉ざされた時間と空間の中でしか可能でない。
そしてそのお手本は自然である。自然をいじくり回して試行錯誤し暗中模索している。基本的には自然が一番の理想なのである。人間が理想の社会を創り上げたと思っているのは幻想にしか過ぎないし、百歩譲っても人間の社会の中だけの理想の社会でしかない。人間のために自然にちょっとの手を加えることは許されるかも知れないが自然そのものを破壊しかねない行為は許されない。科学の限界を知るべきであり、科学でもって自然そのものを根本から変えようとする試みは無謀であると思わなければならない。
自然は複雑であるが法則そのものは単純である。
生まれたものは子孫を残して死に、自然環境に適合したものが生き残り、弱肉強食のピラミッド構造を保持し、生物は遺伝子の組み合わせによって進化している。そして最も重要なことは生物は自然から恩恵は受けても自然に対して害を及ぼすことを一切しないことである。自然環境の変化は自然そのものの変化であり生きとし生けるものがこの変化を止めることはできない。
そうであれば、人間の創りだしたものもこの法則に従わなければならない。
今、私が操作しているパソコンもいずれかは子孫を残して死に、生まれてから死ぬまで自然に害を及ぼしてはならない。自然物から製造され自然物へと消滅していかなければならない。これを動かすエネルギーも自然物から供給されなければならない。そして自然からの恩恵は受けても自然に対して害を及ぼしてはならない。そしてこのパソコンも子孫を生む礎となり進化して行くのである。少数の大型電算機は上層部を成し、その端末は多数をもって下層部を成しピラミッド構造を保持することとなるのであろう。
遺伝子操作もこの法則に従わなければならない。
自然界にないものを創り出してはいけないし、操作で許されているのは組み合わせのみであり、しかも自然界に存在する組み合わせしか許されない。自然の法則から言うと二種類の遺伝子同士の組み合わせしかない。今科学がやろうとしていることは、遺伝子の一部を全然違う遺伝子に組み替えることであるが、自然の法則から言うと一度に一ヶ所しか許されない。3種類以上の遺伝子を組み合わせることは自然の法則に反している。当然全部をバラバラにして自然界にない組み合わせを創り上げる事なんて許されないと思う。
10種類の遺伝子を使って組み替えることは、
9世代の進化を一度にやってしまうことでもある。しかも途中段階の淘汰のステップをすべて排除してである。生まれ出たものはこの世のものではないはずである。当然ながら、例えば豚と人間を組み合わせたり、新しい組み合わせを創り出したり、要するに自然界の現象としてあり得ないものを創り出すことは許されないと思う。科学とは自然界にない新しいものを創り出すものではなく、自然界の原理を探求する手段に過ぎないはずである。少なくとも自然の摂理に反する行為は破滅の道を歩むことだと私は思う。何故自然が地球誕生以来自然の摂理を築き上げ頑なに守り続けてきたかをよぉ~く考えてみる必要がある。
いくら人工物とは言え、最終的には自然と同化しなければならない。
科学で自然にないものを作り上げることは実験段階ではあり得ても実用段階ではあり得ない。実験段階に作り上げたへんてこなものは実験室の中だけにして完全に抹殺されなければならない。科学がやることは効率化・合理化を促すことであり、自然の摂理を根本から破壊することではないことを肝に銘ずることである。科学で作り上げたものは自然の中でも違和感なく存在できるものでなければならない。少なくとも過去又は将来に自然界に発生する可能性のあった又はあるだろうものしか存在してはならないと思うし、たとえ自然界に存在し得たものであろうと一部分を過度に抽出選択する行為を科学が繰り返せば自然の調和を乱すことになる。調和は取り戻すことが可能であるが破壊は取り返しがつかない結果を生む。心すべきであろうと思う。
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