

基本的には組織はピラミッドの集合体である。
ピラミッドと言うことは、上層部が少数で下層部が大多数となる。なぜピラミッドになるかというと、みんな同じであればただの烏合の衆になるからである。それぞれ各人の地位・役割があり、各人の人格、能力・適性などに応じて責任・権限が与えられ、最終的に全体としてはピラミッド構造になる。一部の人で、このピラミッド構造を「体制」だとして拒否する人がいるが、拒否してどういう組織を目指そうとしているのかは明らかにしない。感覚的には全員が同列の仲間であるのが理想だと思っているのだろうが、何てことはないこれは「烏合の衆」と同じである。
さて、組織がピラミッドの集合体であれば、
ここに多数決の原理をそのまま持ち込むと、上層部が少数で下層部が大多数であるからして、上層部は多数決に常に負けてしまう。負けないためには下層部の人達を上層部の理解者にし賛同者にしなければならない。その方法は、(1)権力で強制的にやらせる、(2)仁徳で大衆の心をつかむ、(3)単に大衆の御用聞きとなる、などが考えられる。(1)の方法は政策が正しければ結果としては問題ないが、間違っていれば非難を浴びるし、それでも強制しようとすれば大衆が謀反を起こす。(2)の方法は政策が正しくても間違っていても非難されることはないが、仁徳で大衆の尊敬を得ることはなかなか難しい。(3)の方法は、大衆の意見をまとめて多数決を取り一票でも多い意見を政策として取る方法で、上層部は手続きに不備がない限り結果に対する責任はない。
日本の政治はどの方法によっているのであろうか?
時には強制する政策も必要であろうし、時には国民の総意で行われる政策もあるであろう。しかし、日本の政治には上層部と下層部の間の関係が不明確なままの政策が多い。上層部が何を考えているのか、向かうべき方向はどこなのか、具体的に国民にどのような影響があるのか、などが論議されないまま、もしくは問題点を残したまま、極端な場合は問題点も明らかにしないままで多数決に持ち込まれる。どうやら(3)の大衆の御用聞きの政治であるらしい。ただし、ピラミッドの上層部と下層部の関係は断絶したままで、国民の言いなりと言うわけでもない。訳の解らないままの多数決である。選挙も多数決の一種だが、ここでも立候補者の人格、能力・適性を判断基準として選んでいるわけではない。
ここに来て、政党間の連立が騒がれている。
これは、何を意味しているか。政治が「烏合の衆」と化しているのである。対等の政党間でただの縄張り争いに陥っている。ピラミッド構造を無視した、すなわち組織を無視した政党間連立である。ピラミッド上層部はこのピラミッド構造を利用して政治を実行しなければならないが、この実行すべき政治がいかにあるべきかを議論しないで、安易に多数決に走ることは国民の意見も無視し、責任権限も曖昧にし、上層部の好き勝手な政治を可能にする前述の(1)(2)(3)のいずれの方法にも該当しないごまかしの政治である。なぜごまかしかというと、(1)国民は政党間連立を望んでいない。(2)政党間連立は政治家の都合である。(3)その目的は政策についての議論の省略である。
「各政党が分立していると有効な政策も実行できない」と言い訳するが、
上層部が正しい政策だと確信すればリーダーシップを発揮して国民を説得し各政党を説得しやらせることもできる。それを間違った時の責任を逃れるために他の政党を巻き込んで責任を有耶無耶にするのは納得できない。各政策毎の協議で各政党の賛同が得られないのは上層部の仁徳の不足である。仁徳とまで言わないまでも少なくとも説得させようとする意識と努力の不足である。仁徳が不足しているのであれば上層部の職を辞さなければならない。意識と努力が不足しているのであれば、やり方と考え方を改めなければならない。
政党間連立は大本の発想からしてよろしくない。
本来は党の理念なり教義があっての政党である。その理念や教義に賛同する者が集まって党の掲げる理想を実現すべく努力するのが本旨である。単に政策を多数決原理で通すことを目的とした政党間連立は本来の党の目的を置き去りにしている。もしそうでないなら、政党間連立政権の理念なり教義を明確にしてもらいたいし、少なくとも暫定的でなくある程度永続性のある組織としてもらいたい。節操なくくっついたり離れたりでは安心できないし、そんな連立政党に政治を任せられるはずがない。政治家の仲間内だけの茶番劇はやめにしてもらいたい。
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