オクトシティー正直村

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性善説と性悪説

2021年11月10日 | Weblog
人間は生来「善」なのか「悪」なのかがよく話題に上がる。

 私は「善」でも「悪」でもないと思う。善も悪も併せ持った存在だと思う。もともとが、「善」だ「悪」だと言うのは、人間が作り上げたものであり、人類発祥以来人間が築き上げてきたものである。かといって一つの固定観念ではなくいかようにも変わるものでもある。ただ、たいていのものは大まかな善悪判断をつけることができるようである。世間で言うところの常識というものであろうか。ある人の常識はある人の非常識であることもある。

それでは人間は生来「悪」なのであろうか?

 私はそうは思わない。生きていることそのものが「善」であり、一生懸命生きている人はそれだけで「善」なのである。もし、周囲に他人が全くいなかったら、生きるために行うことはすべて「善」なのである。しかし、人間は社会的な動物であり、社会的な生活を行っている。そのために、それぞれの「善」同士がぶつかり合って、たとえ「善」であっても他人にすれば「悪」になってしまう。「善」だ「悪」だと言うのは、他人との関係によって生じることになる。

生きるための行いに「悪」はない。

 そういう意味では、人間は生来「善」である。それなのに何故人間は「悪」を成すか?これもまた、他人との関係である。他人と共感するところから「悪」が生まれる。当然、共感により「善」も生まれるが、この「善」は自分の「善」とほとんど一致しており、何も問題ないはずである。人間個人としては「善」と認めないが、周囲の他人の多数が「悪」を「善」だと主張すると、「悪」だとは思いながらも「悪」に傾いてしまう。悲しい性である。

共感が何故悪いのだろうか?

一人一人は善人なのに他人と共感することにより敵と味方に分かれていがみ合うことになる。そして、敵をすべて「悪」と決めつけてしまい、自分達こそ「善」であり、対立する相手は「悪」であると信じ込んでしまう。いがみ合いの結果争いとなり相手をやっつけてしまう。最悪のものが戦争である。戦争まで行かなくても、世の中は様々な「善」と「悪」の戦いが絶えることなく続いている。ただ、相手側を「悪」と決めつけているだけで、自分達が「善」なのかも定かではない。

こうして人間は「悪」を成すのである。

 「皆がやっているから」という言い訳のもとに悪い行いをすることもこの一種かもしれない。この延長線上に恐ろしい「戦争」という魔物が潜んでいる。解決策としては、他人が何と言おうと、周囲の意見がどうであろうと、自分の「善」を大切にすることである。そうしてその「善」を勇気をもって主張することである。例え敵と味方に分かれたとしても、どっちが「善」でどっちが「悪」かと決めつけないことである。お互いに善もあれば悪もあるのである。

人はこれを「思いやり」という。

 他人に対する思いやりも重要だし、たとえ悪人であっても、その存在そのものを認めてやる冷静沈着な寛大さが重要なのだろう。悪人であっても生きるために必死で、前述した通り「生きるための行い」は「善」なのである。ただ、その行いが他人に害悪を及ぼしているのである。ただし、自分の「善」には誠実でなければならない。この部分が周囲の他人に共感したゆがめられたものであってはならないし、共感した部分は自分の「善」と向き合って自分なりの結論を出さなければならないし、一方的な思い込みであってはならない。

人間は生来「善」なのである。

 不安になることなく自信をもって生きてゆけばいいと思う。自分に自信を持つことも重要なことである。敵と味方に分かれた議論は大いにやってもらっていいが、議論を止めて敵を徹底的にやっつけて無き者にしようとする行為は「思いやり」も「寛大さ」もない、不毛なものである。「善」と「悪」の問題は未来永劫解決することはないし、「善」も「悪」も認めながら生きてゆくのが我々の宿命なのである。我々自身は「善」であることに自信をもって、周囲の他人と調和しながら生きてゆくのである。

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