オクトシティー正直村

おかしいな?変だな?と思った事を綴った駄文

入り口と出口の考察

2019年06月19日 | Weblog
通常であれば、入り口と出口は同等であることが求められる。

 同等とは、間口の広さであり、通過に対する制限である。大量のものを入り口から入れたら、大量のものを出口から出さなければならない。そのための入り口と出口を設けなければならない。入り口や出口が一つだとは限らないが、入り口と出口の関係をちゃんと定義してやらないとこの機構はただの開放空間と同じになってしまい、何の影響力もなくなってしまう。問題を簡単にするために入り口と出口が一つずつとして考えてみる。

入り口が狭くて制限が多い場合を考えてみる。

 大学の入学試験がそうであろう。よく狭き門という言い方があって、学生の皆さんはその狭き門を通過すべく大変な努力を強いられている。通常であれば、入り口が厳しければ出口も厳しいはずであるが、日本の場合は出口はほぼ自由通過に等しくて、普通に学んでいれば誰でも卒業できるようである。これは考え直さなければならないと私は思っている。大学卒業の価値が廃れてしまっている。困ったものである。

名門大学の入学試験はとっても厳しい。

 そうであれば、競争率の低い大学を目指して大学卒の学歴を獲得しようとする学生が大量にいる。変な学歴偏重の世の中のために大学卒が普通のような状況になっている。厳しい入り口はあるのだが、そうでない入り口がたくさんあるために大量の「大学卒」を生み出している。これも考え直す必要があるのではないかと私は思っている。大学に行って何を目的に何を学びたいかではなく、みんなが大学に行くからという理由で大学を目指している。

出口がほぼ自由通過で、たくさんの出口があるのなら、

 この大学という機構を通過した人達が優れた人材とは言えなくなってしまう。このために「大学卒」の価値が下落してしまっている。対策としては、卒業の条件を入学の条件と同じくらいにして、単に「大学卒」という経歴だけでなく、大学で何を学びどんな成果をあげたのかを重視すべきであろうと思う。卒業論文も卒業試験もただの形だけではなく、実質として意味のあるものにしなければならないのだろう。

入り口も出口も広いのは自由空間とあまり変わらない。

 入り口が広くて出口が狭い場合を考えてみよう。たとえば、年金がそうである。制度としては、一部免除はあっても国民全員が加入するようになっている。ところが、年金の受け取りは申請主義であり、申請しないと受け取れない。また、高額所得者は年金の一部または全額が受け取れない。これも何かおかしい気がする。少なくとも出口が申請主義であれば、入り口が強制的な加入であるのはおかしい。申請主義を撤廃すれば年金の支払いはさらに膨張して破綻する。入り口と出口の収支が合っていないのである。生活保護や失業手当なども同じである。

入り口が広くて出口がない場合もある。

 詐欺による商行為である。多くの客から金を集めて、最後は破綻して出資した金は戻ってこない。この場合は、入り口が快適に通過できるようになっている。おいしい話や儲け話に乗っかるとろくなことはない。入り口が広く設定されている場合は慎重に考えた方がよさそうである。入ったはいいが出るに出られない蟻地獄に落ちてしまう。まさに蟻地獄の形そのものである。

基本的には入り口と出口は同等でなければならない。

 そして、入り口から出口に向かうプロセスの中になにがしかの意義が認められなければならない。大学であれば「学問」であり、年金であれば「相互扶助」である。入り口だけの話をしても出口だけの話をしても意味はない。問題は入り口と出口の間にある。入り口と出口の間のプロセスにある。入ったものはより良いものへ変化して出なければならないし、入り口と出口の間口の広さや通過の制限はそれぞれ個々に検討しなければならないと思う。

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