オクトシティー正直村

おかしいな?変だな?と思った事を綴った駄文

神の正体

2022年02月05日 | Weblog

自分なりに神の正体について考えてみた。

 私は、神とは、永遠の光と、永久の時間と、無限の空間だと思っている。普通には神は観音様や仏様やキリスト様や、ムハマンド様などとなっているが、これらの「神」と称される者たちはあくまで神の使者であって神そのものではないと思っている。その証拠にこの使者の後方には必ずと言っていいほど後光が射している。彼らの後方には光を象徴する神が存在するのだろう。その神の存在を具体的に象徴するものは太陽である。

太陽は地球上の万人に光を降り注ぐ。

 すべてのものに、いやすべての生きとし生けるものに光を平等に降り注ぐ。太陽の光は地球上のすべてのものを見通している。地球上の万物が太陽の光の恩恵を受け、太陽の光に見守られ、太陽の光から生を受けている。太陽の光から逃れることはできない。これこそ我々の目にすることのできる「神」ではないか。日本で言うところの「お天道さん」であり、このお天道さんにすべてのことが委ねられ見守られているのである。

夜は太陽の光を遮断してしまう。

 しかし、お天道様は月の光を通して見守っているのである。月の光も太陽から反射された光によって地球上に月光を注いでいる。しかし、月光は太陽光よりも弱いために、夜の闇は悪がはびこる温床となっている。夜に生命活動をすることは、一部を除いて神の法則からすると推奨されるものではない。お天道様の日の出と同時に早起きしてお天道様の日没と同時に安全な場所で休息するのが正しい生き方のようである。

お天道さんのもとでも太陽の光を遮断できる。

 密室や暗闇や洞窟の中や深海は太陽の光が届かない。こんな中に閉じこもっていることはどう考えても健全とは言えない。お天道様の目の届かないところで不届きな行為をすることは許されないし、ゆくゆくは罰が当たることになる。お天道さんの太陽の光のもとで堂々と暮らしたいものである。常にお天道さんに見守られていると思えば悪いこともできない。青少年の教育も教室の中ばかりでなく是非外に出て晴れ渡った青空のもと神を身近に感じながら行ってもらいたいものである。

神様はどこにいるんだろう。

 この前、初詣に行った時、焚火のそばでおじいさんが話してくれた。神様はどこにでもいて、どこででも願いを聞いてくれる。神社はただの出入り口で、その中はどこにでもつながっているそうである。だから、どこの神社で神様に御参りしようと関係ないそうである。第一、どこの神様が良く願いを聞いてくれるとか、どこの神社がご利益があるとかいうのは神様に対して失礼であると。神様は万人に対して平等に願い事を聞いてくれるそうである。

正月に人間が有名な神社の初詣でごったがえすのは滑稽である。

 どんなド田舎のちっぽけな古びた神社でも神様の出入り口には違いないし、その先は日本全国津々浦々の神社とつながっている。どこからお参りしようと同じなのである。というより前に、神社の施設そのものが人間が作り出したもので、神様にとってはあまり意味がない。お参りするのは神社でなくても、自分がいるその場でもできるのである。それよりも、神を信ずる心が重要なのである。

神様に不平不満をぶつけるのも意味がない。

 神様はストレス発散の対象でもない。まずは、神様に対峙したら、これまで生きてこれたこと現在も生きていることに感謝しなければならないそうである。その後にささやかなお願いというか、誓いを立てるのである。まずは自分が目標に向かって努力して神様にうまくいくように助けてもらうというのが神に対する作法である。何でもかんでも神頼みで、うまくいかないと不平たらたらでは神様にもそっぽを向かれてしまう。

生きるための最低限の要素は、

 休息する場所と栄養補給のための食物である。現代的な考え方からすると、何を解りきったことをほざいているのかと思うだろうが、これは人間だけでなく、生物全般に必要とするものである。もう一度考え直す必要がある。自然界の生物は常に生きる場所と栄養補給の手段を獲得しているし、獲得できないものは子孫を残すことができず生命の系統は絶たれることとなる。これが自然界の法則でもある。人間の場合も同じなのであり、よりよく生きるためにはまずはこの2つの要素を獲得することである。

人間界では衣・食・住という。

 重要なのは食と住であり、衣は体毛が退化した人間独特のものであろう。環境が許せば、衣は必要ない。妻をめとって子孫を作ろうと思えば、食と住をまず準備しなければならない。動物だってそのために一生懸命努力しているのである。そして、獲得した食と住を一生懸命守っているのである。愛だ恋だと言う前に、まずは十分で完璧な食と住を確保することの大切さを再認識する必要がある。親から子へと受け継がれるものも食を獲得する手段であり、安全を保証する住処である。

この頃コロナウィルスの蔓延のせいでもあるだろうが、外で遊ぶ子供の姿を見ない。

 私は天気のいい日は近傍の田圃道をウォーキングするのを日課にしているが、途中で子供の声も姿もとんと見ない。家に籠もってゲームにでも熱中しているのだろうか。是非外で遊んでもらいたい。自然の空間は密室でもないし、開放的で換気も十分で、密集・密接・密閉とは程遠い環境にある。なぜ外で活動しないのか不思議でたまらない。お天道さんはコロナウィルスさえ不活性化させてしまう力を持っている。太陽の光をいっぱい浴びて、バランスの取れた食事で栄養補給して、安全な家庭で十分休養できれば病気なんて跳ね返してしまうと思う。


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