「親」という漢字は不思議である。
そのまま考えると「木の上に立って見る」ということになるが、本来は位牌を見ていることを表しているようである。左側は位牌だそうである。昔の儀式で、ナイフを林に投げて刺さった木を神木として選ぶ慣習があったそうで、その神木で作られたものが自分の親の位牌ということになる。その神木を斧で切ると「新」となり、これに草冠をつけると「薪」となる。なかなか漢字は面白いもので、奥深い。出典は有名な漢文学者白川静氏の文字学による。これに基づいて「親」という意味を改めて考えてみたい。
「親」は単純に両親を表しているわけではない。
位牌を見ている状態を表しているのである。身近に接している、直に肌身に触れる意味でもあるし、直接、自分で行うという意味もあるし、父母の意味もあるし、身内、親戚の意味もある。どちらかというと、父母という意味は一部であるし、お互いが親しい関係でなければ「親」は成立しないことでもある。そして親しみを込める対象が「親」とも言える。形だけの「親」ではなく、親しい関係を持った状態が「親」なのかもしれない。押し付けるものでもなく押し付けられるものでもなく一方的なものでもなく相互に作り上げていくものであろう。
「親」に関わる残虐な事件が起こっている。
まず、その責任をとる優先順位は親しさの度合いによるのであろう。まずは両親であり、身内、親戚であり、親友であり、友人・知人・隣人などである。そしてこれらの関係はあくまで個人的である。個人と個人の関係で親しい関係を裏切る行為から事件が起こる。そして、親しい関係を裏切った本人が罪を犯し、その責任はその本人にある。まず責められるべきはその本人である。その本人が父や母であればさらに責任は重大になる。そして、少なからずも身内、親戚、親友、、友人・知人・隣人もその事件を防止できなかった責任の一端を持つことになる。無関係な他人事ではないのである。
「親」を公共の組織や社会に求めるのは無理がある。
あくまで、「親」の外側に位置している。他人事とは言わないが、あくまで周囲で見守って支えてやるくらいのことしかできない。自分の親や自分の子供と同じように接しなさいというのは無理があるし、個人対個人の関係で接するのは物理的に無理がある。ここのところをまず前提に置かなければならないと思う。公共の組織や社会のせいにしてしまうことで本来の責任が雲散霧消してしまうし、理不尽にも責任を問われた公共組織や社会は責任逃れに徹するしか道がないし、責任の取りようもない。
メディアはこの類の事件が起きると、すぐに公共の組織や社会のせいにする。
学校が悪い、警察が悪い、お役所が悪い、会社が悪い、国が悪い、などである。でも、根本の原因は「親」に関わる人達にあるのであろう。まずこの人達の現状をつぶさに観察して、問題点を見つけて解決策を見出すべきであろう。周囲で他人事として見守って支えている人達に向かってやり方が悪い、親身でないと追及しても根本の問題は解決しない気がする。お役所はお役所仕事しかできないのである。確かにもっと頑張れとは言えるが、それにも限界がある。そして、どのように処置しても批判はついて回る。だからこそ「親」の部分に踏み込めないのである。
メディアは大衆の味方である。
「親」の集団の責任を追及するとある意味で個人攻撃になってしまう。大衆側からすると自分達も非難されているように受け取られる。これでは大衆の賛同は得られない。よって、大衆の対角にある公共の組織や社会、ある時は国に対して非難を浴びせかける。これによって正義の味方にもなり得る。しかし、反面大衆迎合のご機嫌取りにも見えてくる。そして、事の本質が見えなくなってしまう。メディアでポピュリズムが取り沙汰されているが、メディアそのものもポピュリズムに毒されているのではないだろうか・・・。
公共の組織や社会を擁護しているわけではない。
確かに公共の福祉のためにより良い環境を作り上げることは大切なことである。しかし、公共の福祉には限度があり、個人に個別に親身に対応することは物理的に困難である。下手をすると福祉を受ける側と同人数の人間が必要になる。何もかも福祉を担う人達に委ねるのでなく、福祉を受ける人の周囲には「親」の集団がいるはずであり、福祉を受ける人もそのような「親」の輪を広げる努力をすべきなのだと思う。それでもどうしようもなくなった人達を焦点に福祉の手を差し出すのだろうと思う。万人が平等という福祉は考え直すべきである。
そのまま考えると「木の上に立って見る」ということになるが、本来は位牌を見ていることを表しているようである。左側は位牌だそうである。昔の儀式で、ナイフを林に投げて刺さった木を神木として選ぶ慣習があったそうで、その神木で作られたものが自分の親の位牌ということになる。その神木を斧で切ると「新」となり、これに草冠をつけると「薪」となる。なかなか漢字は面白いもので、奥深い。出典は有名な漢文学者白川静氏の文字学による。これに基づいて「親」という意味を改めて考えてみたい。
「親」は単純に両親を表しているわけではない。
位牌を見ている状態を表しているのである。身近に接している、直に肌身に触れる意味でもあるし、直接、自分で行うという意味もあるし、父母の意味もあるし、身内、親戚の意味もある。どちらかというと、父母という意味は一部であるし、お互いが親しい関係でなければ「親」は成立しないことでもある。そして親しみを込める対象が「親」とも言える。形だけの「親」ではなく、親しい関係を持った状態が「親」なのかもしれない。押し付けるものでもなく押し付けられるものでもなく一方的なものでもなく相互に作り上げていくものであろう。
「親」に関わる残虐な事件が起こっている。
まず、その責任をとる優先順位は親しさの度合いによるのであろう。まずは両親であり、身内、親戚であり、親友であり、友人・知人・隣人などである。そしてこれらの関係はあくまで個人的である。個人と個人の関係で親しい関係を裏切る行為から事件が起こる。そして、親しい関係を裏切った本人が罪を犯し、その責任はその本人にある。まず責められるべきはその本人である。その本人が父や母であればさらに責任は重大になる。そして、少なからずも身内、親戚、親友、、友人・知人・隣人もその事件を防止できなかった責任の一端を持つことになる。無関係な他人事ではないのである。
「親」を公共の組織や社会に求めるのは無理がある。
あくまで、「親」の外側に位置している。他人事とは言わないが、あくまで周囲で見守って支えてやるくらいのことしかできない。自分の親や自分の子供と同じように接しなさいというのは無理があるし、個人対個人の関係で接するのは物理的に無理がある。ここのところをまず前提に置かなければならないと思う。公共の組織や社会のせいにしてしまうことで本来の責任が雲散霧消してしまうし、理不尽にも責任を問われた公共組織や社会は責任逃れに徹するしか道がないし、責任の取りようもない。
メディアはこの類の事件が起きると、すぐに公共の組織や社会のせいにする。
学校が悪い、警察が悪い、お役所が悪い、会社が悪い、国が悪い、などである。でも、根本の原因は「親」に関わる人達にあるのであろう。まずこの人達の現状をつぶさに観察して、問題点を見つけて解決策を見出すべきであろう。周囲で他人事として見守って支えている人達に向かってやり方が悪い、親身でないと追及しても根本の問題は解決しない気がする。お役所はお役所仕事しかできないのである。確かにもっと頑張れとは言えるが、それにも限界がある。そして、どのように処置しても批判はついて回る。だからこそ「親」の部分に踏み込めないのである。
メディアは大衆の味方である。
「親」の集団の責任を追及するとある意味で個人攻撃になってしまう。大衆側からすると自分達も非難されているように受け取られる。これでは大衆の賛同は得られない。よって、大衆の対角にある公共の組織や社会、ある時は国に対して非難を浴びせかける。これによって正義の味方にもなり得る。しかし、反面大衆迎合のご機嫌取りにも見えてくる。そして、事の本質が見えなくなってしまう。メディアでポピュリズムが取り沙汰されているが、メディアそのものもポピュリズムに毒されているのではないだろうか・・・。
公共の組織や社会を擁護しているわけではない。
確かに公共の福祉のためにより良い環境を作り上げることは大切なことである。しかし、公共の福祉には限度があり、個人に個別に親身に対応することは物理的に困難である。下手をすると福祉を受ける側と同人数の人間が必要になる。何もかも福祉を担う人達に委ねるのでなく、福祉を受ける人の周囲には「親」の集団がいるはずであり、福祉を受ける人もそのような「親」の輪を広げる努力をすべきなのだと思う。それでもどうしようもなくなった人達を焦点に福祉の手を差し出すのだろうと思う。万人が平等という福祉は考え直すべきである。
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