オクトシティー正直村

おかしいな?変だな?と思った事を綴った駄文

東京五輪・パラリンピック大会組織委員会の森喜朗会長辞意

2021年02月13日 | Weblog

私は別に森元総理大臣を擁護するわけではない。

 しかし、ことの顛末を見ていると、何か狂気じみた感覚を持ってしまう。あまりにも極端な見方でこの事件が報じられている気がする。もともとが、失言から始まったことである。そしてその失言は本人が謝罪して撤回したのである。私から言わせれば、失言自体はそんな大それたことではないし、森会長自身が83歳の高齢で、古い考えをおもちの方なのであろう。こんな人もいていいではないか。徹底的に排除しようとする風潮はあまりにも冷静さを欠いている。

昔はいわゆる男尊女卑が普通だったのだろう。

 男尊女卑を一方的に悪いという人が多いが、男の人を重んじて女の人を軽んじることだけで理解するとおかしくなる。男の人を尊重して、女の人はそれを陰で支える考え方なのである。別に女の人の権利を奪うものでもないし、反対に陰で支えながら実質女の人が実権を握っている場合も多かったのだろう。女の人にとって男の人を前面に出して裏で活躍した方がやりやすかったのかもしれない。男と女の役割の考え方で、男女平等に全く反するわけではないと思う。

これはこれで、利点がある。

 男女平等を徹底すると、女性が男性と平等に扱われる。男性と女性が違うことは間違いない。この違いを取っ払って全くの男女平等にすると不都合が生じてくる。男性には男性の女性には女性の役割を分担させた方が都合がいいはずである。その役割に不平等があるならその点について相互に話し合えばいいだけのことである。最初から平等ありきで語られると男性も女性も困ってしまう。今世間で問題視されているのは、男性が自分の役割をしっかり果たさないで、女性に負担をかけっぱなしにしていることである。

昔の人は男女ともにお互いの役割をしっかりと果たしていた。

 その意味で男女平等だったのである。男尊女卑の悪いところばかりを語って男尊女卑をこの世から葬り去ってしまうのは、貴重な日本文化のいい面もバッサリ切り捨ててしまうことになる。男尊女卑の存在も認めて、この悪いところを現代風に改善してゆけば現代風の男尊女卑が生まれるのだろう。「男尊女卑」の言葉が悪いと言うならふさわしい名前に変えてゆけばいい。時には「男尊女卑」時には「女尊男卑」でもいいではないか。

極端から極端に走るのは考え物である。

 いろんな考え方をする人がたくさんいてもいいではないか。それを一律的に縛ってしまうのは暴力でさえある。その縛っている人が誰なのかもはっきりしない。極めて危険な状況である。多様性を持った人達が議論を尽くして何らかの結論に行き着くのである。最初から言論封じみたいな決めつけた議論は不毛であるし、害を及ぼすばかりである。そして、メディアがその片棒を担いで民衆を扇動している。何も考えないで追随する民衆も問題だが、最初に種を蒔いた人が一番の悪者である。

一度やり玉にあがるとその追及は収まらない。

 今度は、森さんが後継者に目星をつけた人と面会しただけで、「密室での後継人事」と断言してこれまた非難されているが、森会長とすれば、開催を間近に控えて、後継者をどうするかが最大関心事であるはずである。後継者をどうするか考えるのは現会長の重要な職務だともいえる。しかも、この面会だけで決まるわけではない。もしそうであれば、これで決まってしまう状況の方が問題である。またもや議論が尽くされていなくて、なるようにしかならない体たらくな体制が問題と言える。

森会長が辞任しても何も問題ない。

 森会長は過去に多大な貢献をしてきたし、いろいろな面で大会準備を推進してきた。だからと言って、森会長が辞任したら開催がままならないと考えるのはいかがなものか。もしそうであれば組織そのものが森会長の敏腕に頼って弱体化していることとなる。トップがいなくても代理となる人がいるし、下部の組織は計画通り済々と準備が進められるはずである。辞任に賛成する人も辞任に反対する人も何か論点がずれている気がする。


コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« ワクチンの考察 | トップ | 優先順位の付け方 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

Weblog」カテゴリの最新記事