オクトシティー正直村

おかしいな?変だな?と思った事を綴った駄文

轢き逃げについて思う

2015年06月16日 | Weblog

轢き逃げは、人を車で轢いてそのまま逃げ去ることである。

 まずは人を轢いた事実があって、そのまま逃げ去った事実があれば轢き逃げである。自分が轢き逃げをした意思があったかなかったかは関係ない。轢き逃げは轢き逃げである。それなのに、轢き逃げをした本人にその意思をわざわざ確かめるのは何となく違和感がある。轢き逃げが事実として確定し、本人の罪状を明らかにし、刑罰を確定するときに故意か過失かが問題になるのだと思う。轢き逃げが悪いのは、轢き逃げをしたかどうかではなく、轢き逃げによって助けられるべき命が失われたことであり、その命を見捨てたことである。

轢き逃げが道路交通違反である前に、

 助けるべき人命を助けなかった罪が問われるべきであり、単なる道路交通違反ではなく人間として為すべきことをやらなかった罪を負うべきである。しかも人命にかかわる極めて重大な背徳行為なのである。通常の我々の社会生活においても様々な背徳行為が散見される。本来であればこのような行為も軽微であるかに関係なく許されるものではない。しかしながら軽微なものについては大目に見て許されている。この許される結果に甘えて何でも許されると勘違いしている人達がたくさんいる。もっと増長するとこれらの背徳行為が当然だと開き直る人達もいる。

根本的に考え直さなければならないのは、人間本来の道徳である。

 その人の考え方に間違いがあれば、軽微であろうと重大であろうと罪を犯してしまう。たとえ軽微であろうと許されることなくその罪を糾弾すべきであり、本来の道徳を教え込まなければならないと思う。その許されざる罪を本人も納得し反省する気持ちがあれば、許された時に感謝の気持ちが生じ心から反省し二度と犯さないはずである。単に「規則違反だから」「迷惑だから」「みんなと違うから」と言うだけで済ませてはいけないのである。究極は周囲の人への思いやりであり、社会に対する貢献であり、自己の道徳観の完遂である。思いやりのない人、反社会的な人、自己の道徳観の欠如した人などは、その行為は程度の差はあれ最初から罪を犯していることになる。

道徳を押し付けることに反発する人達がいる。

 確かに道徳は押し付けるものではなく、がんじがらめの規則で固めるものでもない。その代わり、極めて寛容なのである。反発する人は、現実の道徳が寛容でないことに異を唱えているのだと思う。人の考え方は千差万別であり、捉え方も解釈の仕方も個々に違う。しかしながら、根本のところは人間として同じであり、その部分を道徳として過去に営々と築いてきたはずであり、これからも築いてゆくことは間違いない。これが文化である。これを根本から否定するからおかしなことになる。過去も未来も人間そのものは変わらない。変わっているのは表面だけで、その表面の違いをうるさく詮索するから疎んじられ反発することになる。

道徳そのものは簡単なことだと思うし、難しいことではない。

 まずは、その道徳を受け入れるかどうかであり、自分の中に自分だけの道徳を築き上げられるかである。受け入れたら実行してみる。実行してみて周囲の反応があればそれに対応して常に修正してゆく。そしてよりよいものを目指して自ら学ぶ姿勢を持つことが重要だと思う。過去の経験の乏しい若者の道徳は発展途上で時に破壊的である。過去の経験に縛られた老人の道徳は保守的で柔軟性に欠ける。いずれも長短あろうが、それぞれが最善を尽くして自分の道徳を作り上げなければならない。それぞれの人達にそれぞれの自分の過去に基づいた道徳が存在する。その道徳に誠実に従い、常により良いものに育てていかなければならない。

道徳に反する事件が多発している。

 そこに見られるのは、自己の道徳の未熟であり、自分の作り上げた道徳に誠実でない結果であり、自己の道徳に照らして正しいのか正しくないのかの判断し、あるべき姿を追求し、未来を的確に予測して自分なりに現実に実行することである。いずれについても社会的教育の不在が気がかりである。未熟な者には教育が必要であり、誠実な生き方を教えるのも教育である。この誠実を実行に移す知恵を与えるのも教育である。これらの教育の機会を失った、もしくは教育されることなく放置された結果としてこのような事件が起きている。しかもその内容は重大化して人命を脅かすほどの規模になっている。本来は、その手前の軽微な段階で芽を摘み取っておくべきことであり、その機会を失していることが大いに後悔される。機会を見逃して放置していた結果を現在時点で改善することはもはやできない。

反社会的な行動をする人に「私」が意見をすると、

 絶大なエネルギーを持って「私」が攻撃される。このエネルギーを支えているのは我々の住む「社会」である。「社会」が反社会的な行動を容認し反社会的な意見を支援しているのである。もし、社会がその存在そのものを認めないなら最初から反社会的な行動は存在しないし発展しない。確かに批判的な意見は社会にも存在する。しかし、それは社会をよりよくするための正当な意見であり、反社会的な意見ではないし、大いに取り入れて正当な意見をよりよいものに作り上げていけばいいと思う。どうやら、反社会的な行動は「社会」もしくは「私」から何も意見されず(意見することを躊躇して)放置された結果だと思う。規則違反という前に、その行動そのものの善悪を判断して「社会」が「私」がやるべきことはたくさんあるし、どういうわけか放置されているものがたくさんある。反対に反社会的行動の存在を公的に承認する行為さえ散見される。考え直すべきである。

何か、歯に衣着せた言い方になったが、

 例えば、近い例で言うと、暴力団の上納金から所得税を徴収すると言う。たしかに所得があればその所得に応じて税金を徴収するのが規則ではあるが、その前に暴力団の上納金を許している実態がある。上納金は暴力団組織の名を借りて円滑な暴力団活動を行うための礼金であろう。上納金が約2億3千万だと言う。下部組織がこれだけの上納金を払ってでも営業できる暴力団活動がある。これは金額的に言っても日本国全体でどれほどの規模になるのであろう。それだけのものが容認され、支援し支持する人達が「社会」に存在するのである。まずは、その反社会的な活動を取り締まるのが最初だろうと思う。所得税を課税すると言うことはすべての暴力団活動を公的に容認したに等しいと思う。この所得税が暴力団活動のブレーキになると思えばまだ救われるが、本来のなすべきことがスッポリと抜けている気がする。



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