オクトシティー正直村

おかしいな?変だな?と思った事を綴った駄文

神(自然)の摂理

2007年04月13日 | Weblog

自然に死ぬ場合は選り好みはなく何人に対しても平等である。

 善人であろうと悪人であろうと、老若男女に関係なく、貧富の差も貴賎の差も、天才であろうと凡人であろうと何のえこひいきもなく死ぬ時は死ぬ。自業自得の部分もあるが、死は万人に平等であり、死を免れる者はない。生きとし生ける者すべてに死は遅かれ早かれ訪れる。

神(自然)は常に平等である。

 すべての者に生きる機会と必要性を与え生かされる。善くても悪くてもである。自然にとって善悪は関係なく反対に善も悪も必要なのである。悪があって善も存在する。悪のみを駆逐することを神(自然)はしない。善も悪も強い者も弱い者も自然淘汰的に消滅して行く。悪を駆逐しようとするのは人間の行いである。

科学とは細かく分類することである。

 分類して善し悪しを評価する。そして善いものだけを精選する。善いものとは人間に役立つものである。人間に役立たないものは抹殺し消滅させる。そうやって精錬されたものが科学の成果として積み上げられて行く。しかし、できあがったものが純粋であればあるほどひ弱なものに育って行く。悪のエネルギーが消滅しこれに対抗する善のエネルギーも衰退して行く。

純粋培養したものは自然の中では育たない。

 実験室の中でしか育たない。そんなものを作り上げても自然を解明する手法としては意味があるが、現実的にはあまり意味はない。ただ、自然を解明した知識を活用することは意味がある。あくまで見習うべき大本は自然そのものである。自然を模倣したものでなければ現実的には役に立たない。ところが、科学は自然を無視して暴走しようとしている。

自然に存在しないことをやったらどうなるか、

 この頃の科学は安易に無節操な冒険を実行している。そして自然界にはない世界を現出させて、これを科学の世界だと勘違いしている。これは自然の裏の世界であり、自然が過去に淘汰した世界である。それをむやみに掘り起こすことは自然に反するし、宿主に寄生して破壊する病原菌ウィルスのような行為である。自然に逆らわない自然に親和性のある科学を目指すべきである。

自然に逆らった結果責任は誰が取るのか。

 あまりにも影響が大きくて人間には責任が取れない。その責任の重大さを認識しないで人間は無謀な冒険を続けて、結局は自然そのものにつけを回している。自然の摂理を科学により理解して自然の摂理に基づいた行動をするべきなのである。自然の摂理を模倣するのであって、自然そのものを使って無謀な実験する訳ではない。自然に逆らう行いは宇宙破滅への道を突き進むに等しい。

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