オクトシティー正直村

おかしいな?変だな?と思った事を綴った駄文

政治家の職業化は正しいのか

2007年04月21日 | Weblog

私は政治家は本来ボランティアであるべきだと思っている。

 民間においてもバリバリの有能な人物が一定期間国のために奉仕して国を良くし正しい方向に導く仕事に従事してもらうのが本来の姿ではないかと思う。そこには利害も得失もなく純粋で理想的な「仕事」ができる。そして、その実績は政治家を辞職した後の職業にも反映され個人の能力として評価される。また、その成果は国のために奉仕し尽力して多大な成果を残したとして個人の業績として讃えられる。政治家に就くことで名誉が得られるのは結構だが、政治家にしがみついて金儲けをしようと言う魂胆は許せない。また、政治家をやるしか能のない人も願い下げである。

政治家は政治家である前に一人の立派な社会人であり、

 有能な民間の職業人も務まるような人である必要がある。政治家を辞めても一社会人として立派な業績が残せるような人でないと政治家は務まらない。反対に、「一定期間は国のために奉仕しましょう。しかし、私にもやりたい事業を他にたくさん抱えているのでこれ以上は勘弁して下さい。」くらいの優秀な人が短期間に集中して政治に携わって多大な成果を上げてもらうことを期待する。

今の国会を見ていると、

 長年の政治家としての実績(当選回数)が認められ大臣や首相に就いているが、大臣や首相に就いたときはすでに燃え尽きている状況であり、斬新なアイデアを打ち出す者は少ない。長年の実績に傷をつけないために保身に走る。また、長年の実績から現実主義となり理想を抱くことにためらいがある(と私は感じる)。職業政治家の人より民間で有能な人の登用を大いに提唱する。

そんなことを言うと、「政治の経験もない人に務まるわけがない」

 と言われそうだが、長年の経験がなければ組織を動かせないような体質のほうが問題である。そんなことが通用しているから本質的なものを見失い、枝葉末節の些事に振り回されることになる。政治家は本質的なことをとらえて方向性を示すだけでいい。これを現実的に具体化するのは官僚以下の仕事である。

本質的に正しくて国を良くする政策であれば、

 みんなで実現を目指して前向きに一歩でも二歩でも前進しなければならない。ところが目の前のしがらみに縛られて「やりたくない」または「やりたくてもできない」というのが本音で、政策はなかなか進まない。有効な政策を打ち出したはいいが、下手をすると首相や大臣であっても周囲から村八分にされかねない状況である。政治家も村八分にされてはたまらないので、積極的な政策を打ち出せない。政治家も、長年の政治経験が災いして「本質的に正しくて国を良くする政策」を自ら案出できない体質になっているのではないか。「そんな事は実現不可能」「周囲への影響が大きすぎる」「みんなに猛反対されるのではないか」といった後ろ向きの考えが優先する。

民間の斬新な知恵をもつ有能な人物が政治家の職に就けば、

 そのセンスをもって改善できることはたくさんある。公共事業の効率的な実施要領の見直し。予算制度の見直し、教育の見直し、医療費の見直し、福祉の見直し、軍事の見直し、科学技術の見直し等々たくさんある。いずれも過去のしがらみをずるずると引きずっていっこうに改善できない分野である。民間の斬新な知恵で一刀両断に革新的な改革をせよと言っているわけではない。自分の専門の得意分野で能力を発揮しコツコツと少しずつ改善してゆく体質が望まれる。一歩でも二歩でもいいのである。恒常的なことは官僚以下で十分こなせるであろう。

例えば、

 社会基盤の整備と称して後世に財産を残す名目で行われている公共事業は果たして採算が合っているのだろうか。これに民間の経営技法を取り込んで単年度の歳入歳出だけでなく、長期間の貸借対照表(バランスシート)を作成して見直したら負債と資本の状況が明らかになり、歩留まりがいかに悪いかがわかると思う。公共事業の工事発注の無駄はメーカの製造部門の工程表(フローチャート)を取り入れれば一発でなくなる。

こんな話をすると

 「そんな考えは素人の浅はかさで、政治には無駄も必要なんですよ」とどこかの老練な政治家から諭されるかも知れないが、どこまでが無駄な経費で、どこからが必要経費かを明確に把握することはいずれにしても必要である。雇用対策の事業をやるなら、明確に区分してやればいいし、余った労働力も有効に活用できる方法を考えるべきで、曖昧な雰囲気だけのバケツ勘定で決定することは許されない。

「一期や二期の短期間では有効な政策が打ち出せない」

 と批判する人もいるかもしれない。それは政策を引き受けた人の能力の如何によって決まる。過去を分析し現在を見直し将来を展望した政策を創り上げなければならない。それは思いつきや行き当たりばったりではいけない。そのような整合の取れた建設的な理路整然とした政策を立案できる人達の集団から様々な政策を提案してもらって、その中から適任の人を選ぶのである。選ばれた人は名誉であり、その政策を立派にやり遂げられればさらに名誉である。今の首相や大臣は選ばれても名誉だとは感じられない(順番待ち?)。また、自己の政策を打ち出してこれをやり遂げようと言う気概さえも感じられない。任期を無難にこなそうという自己保身の感じが強い。官僚以下も有効な政策をあまり期待していないようだ。

本来は、軍人もボランティアである。

 職業軍人もいるが、本来は国民全員が国防に対して責任と義務を持ち、国防の一端をある時期ボランティアとして担わなければならない。日本の場合はそれが職業軍人(自衛隊)に任せっきりになっている。諸外国では一流の紳士はほとんど軍歴を持っている。国のために軍人として奉仕し実績をあげた経歴の持ち主でないと一人前とは認められない。よく首脳会談等で日本の首相に軍歴がないことを聞かされて諸外国の首脳から怪訝な顔をされるという。米大統領が徴兵を免れていたことが発覚し国民から責められていたのは記憶に新しい。このような状況は日本の歴史からくる特異性であり一概に悪いとは言わないが、本来のあるべき姿は明確にしておく必要がある。国防に関して他人事のように任せっぱなしで済ませる風潮は反省すべきである。(話は余談になったが・・・)

政治家の「派閥」なんていうのは、

 暴力団の親分、子分の関係であり、猿山のボスザルを中心とするグループ集団と大差ない。少なくとも国民にはほとんど関係ない世界であり、政治屋の闇の世界でもある。その派閥の動向をいちいちマスコミで堂々と報道している。政治屋もなかば公然と「私は○○派です」と宣言する始末である。あくまで、裏の世界であり表に出して公表すべきものではないと思う。「私は○○親分の息のかかった一の子分の△△でござんす」と啖呵を切っているようなものである。啖呵を切るのは暴力団同志や政治屋同志の中だけにしてもらいたい。

このような「派閥」は、

  過去から現在までの職業「政治家」の人達の醜い産物であり、新しい知恵の入り口を狭くし阻んでいる。これまでも新しい知恵の入り口は設けていたようだが、鎖国時代の長崎の出島みたいなものであまり有効に機能していないようだ。また、新しい知恵が入ってきても拒絶反応が強くて受け入れられることは希である。いつもポーズだけで終わってしまう。よどんだ政治に新しい知恵を積極的に取り込める体制の整備が望まれる。 

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