オクトシティー正直村

おかしいな?変だな?と思った事を綴った駄文

選挙について

2006年05月10日 | Weblog

100人の人がいて、投票によってあることの賛否を決定しようとした時、

 40人の人が棄権したとすると、残りの60人の多数決で決まることになる。多数決は通常過半数をとれば有効なので、結局は30人の人が結託すれば自分たちの意思で100人の人を自由に操縦することができる。結託していない30人の票は二分され、中には賛同者がいるはずなので、余裕を持って多数決を支配することができる。少なくとも自分たちの意思を否決されることはない。結託した30人の人たちが善意の人であれば問題ないが、悪意の人たちであれば100人の人たちは悪い方向へと導かれ、30人の結託した人達の言いなりになってしまう。

善意であれ悪意であれ、強固な意志を持った人達の結託は強い。

 よって、結託した30人の人達は投票権を放棄することはない。棄権するのはそれほど強固な意志を持っていない人達である。100人の集団が結託した30人に一方的に支配されないためには、結託した30人に対抗した票を結託していない人と、棄権した40人のうち10人でも投票すれば阻止できる。棄権した40人がまったく意思表示せずにランダムに投票したとすると、賛成が20、反対が20の上乗せとなるが、これは多数決にはあまり影響しない。結局は棄権した40人は自分で考えて何らかの意思表示をして投票しなければ意味がないことになる。同様に棄権票を投じても多数決には意味がない。

民主主義とは、個人の考えを政治に反映する努力をすることである。

 そのための最低限の権利であり義務でもあるのが選挙の投票である。「たかが一票投じても政治が変わるはずがない」とタカをくくっている人がいるが、前述のようにこういう人ばかりになると、少数の人達に政治を支配されてしまう危険性が大きくなる。たとえば、日本の選挙での投票率は60%弱である。政権で過半数を取るためには30%の票を獲得すればいいが、これを阻止するためには棄権している40%の人達が反対票を投じれば阻止も可能である。

個人の考えを政治に反映する努力を怠ると独裁政治に向かう。

 もし悪意の人が100人の政治を独裁しようとすると、30人の結託した集団を持てば可能である。反対されても怖くないのである。なぜならば40人の人達が投票を棄権し、残りの30人は意思を表示してもバラバラだからである。40人の人達が棄権せずに投票すれば、少なくとも分母は100人になり、結託した集団は少なくとも50人を獲得しなければ政治を支配できない。これは大きな障害であり、独裁政治を阻止していることとなる。健全な市民が健全に選挙権を行使すれば健全な政治が実現でき、悪の独裁も阻止できる。

右か左かを100人の人に選挙で決める時、

 全員が何も考えずに投票した場合、結果はサイコロを振ったのと同じで50対50になるはずである。この中に少なくとも二人の賢者がいて例えば右が正しいことを見抜いたとすると、何も考えない98人が49対49になるので、結果は51対49となり、正しい右が選択される。しかし正しい善悪や価値判断に関係なく例えば右に大衆の興味を引くもの(容姿、知名度、愉快度など)があった場合、何も考えていない人達は右に傾き、二人の賢者は埋もれてしまう。結論を言うと、一人一人が真剣に考えて正しい判断をするしかないようである。そして間違ったいい加減な判断をするくらいならサイコロを転がして投票し、賢者に任せたほうがいい。ただし、やはり棄権はいけない。

政治は大別すると革新、保守そしてその他の中道に区分できると思う。

 100人の政治では、革新が30、保守が30、そしてその他の中道が40でもいいと思う。ただし、その他の中道が大きな決定権を持っていることを自覚すべきである。その他の中道は、通常は革新でもなく保守でもなく種々の考えを持ったバラバラの集団であるが、いざとなれば革新もしくは保守へと変貌できる可能性を持っている。革新や保守の政治が気に食わなければ政権交代させうる力を持っており、自ら結託して中道の政権を立ち上げる力もある。日本もこのような二大政党制へ早く移行してもらいたいし、中道の意義を再認識し、棄権がなくなる時代が訪れることを期待している。

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