
宮中歌会始めの様子がテレビで実況放送されていた。
見ていると、みんな神妙な顔をして和歌をそれぞれ披露し鑑賞している。厳かと言えば厳かだが、もっと感動や表情があってもいいのではと思う。みんな裁判の被告席に立ったような顔をしてまるで埴輪の土像のような表情である。少なくとも和歌を鑑賞し鑑賞してもらうのなら依頼と感謝と称賛の表情と仕草ぐらいは許されるのではないかと思う。
歌会始めはもっと和やかで大らかな雰囲気でやるものだと思う。
誰があのような堅苦しい所作を押し付けているんだろう。感動や表情が許されない雰囲気の中で和歌は鑑賞できない。何のための歌会始めだろうと思ってしまう。儀式が先行して本来の目的が忘れ去られている気がする。それとも感動や表情を表に出すことがはしたなく大人気ない行為だとでも言うのだろうか?
宮中の歌会始めが古式ゆかしいのかどうか調べてみた。
始まったのが1869年であり、1874年から一般の公募が始まり、1879年から勅題による和歌が詠進され一般国民の入選歌、召人、選者、皇族、皇后、天皇陛下の順に披講される。1869年、1879年といったら明治初期であり、それほど昔でもないし、せっかく国民の前で披露するようにしたのなら、もっと開かれた形で催せるよう見直したらどうだろう。まるで裁判所のテレビ中継をみているような印象である。
防衛庁が防衛省になった。
2001年の中央省庁等改革で環境庁は環境省に、科学技術庁、国土庁、経済企画庁、行政管理庁も統合され、北海道・沖縄開発庁も見直され、あと「庁」として残っているのは、国税庁、検察庁、警視庁、警察庁、消防庁、水産庁、海上保安庁、気象庁など、そして宮内庁がある。いずれも中央省庁改革から取り残された行政機関としての印象が強い。早い時期の見直しが必要ではないかと常々思っている。
皇室の方々はさぞや大変であろうといつも思う。
公人であるので、言動や行動に細心の注意を払うのは理解できるが、それが保守的になったのでは発展がない。変えるべきところは変えて行く必要があると思う。伝統を守ることと保守的な考えに徹することとは別であり、少なくとも伝統は精神であり、保守的な形だけに囚われることとは一線を画すと思う。皇室を批判する立場に無いことは重々承知しているが、個人的な私見で変えるべきところは少しずつ変える風が吹くことを期待している。
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