改正男女雇用機会均等法が施行されて、
女性または男性のみの募集ができなくなり男女を区別する職業名も求人広告で原則禁止されている。看護婦→看護師、保母→保育士、仲居さん→接客係などと職種の名称を言い換えるそうである。私は正直言っておかしいのではないかと首をかしげると同時にその滑稽さに思わず笑ってしまう。またもや「みんな同じことが平等」という場面に出くわした感じである。しかも、形だけの内容を伴わない上っ面だけ、体裁を整えるだけの施策である。
男女を「差別」することと「区別」することは別の考え方である。
「差別」とは上下、貴賤、利不利、貧富などの個人の権利に踏み込んで線引きをすることであり、「区別」とは個人の特性、能力、属性、経歴、性別、年齢などに応じて線引きをすることであろう。男女雇用機会均等法は、雇用の機会均等であり、「区別」を妨げるものではないと思う。男女が同じで区別をする必要がないとは、現実を無視している。少なくとも形態的に違っている。男にも女にもできる仕事を「男だけ」とするのは女の雇用機会を奪っているが、明らかに男にしかできない仕事も女に開放すべきであるとは乱暴に過ぎると思う。当然、女にしかできない仕事を男にも開放すべきであるもおかしい。これは男も女も平等に雇用機会が制限されており全体では機会均等である。なにも矛盾はない。
雇用する側にとっても、男と女を区別して雇用する場合は当然生じる。
それを区別することも許されないとはおかしなことである。男であること、女であることは厳然たる事実であり、変えようがないし、事実を無視して同じとすることはできない。南ア共和国の「アパルトヘイト」を日本語訳では「人種差別政策」としているが、正確には「人種隔離政策」である。人種の違いは事実であり、人種の違いによる摩擦を避けるために相互に「隔離」しようとする政策であると私は認識している。現実が「人種差別」であるかも知れないが、これは個々の差別の事実をとらえて改善を訴えるべきであり、「隔離=区別」そのものが悪いということにはならない。
男女は白紙的には区別されるものである。
当然その区別に差別があってはならない。男をもしくは女を雇いたいと言うのに、求人広告で区別してはならないとなると、採用するつもりのない女または男をも求人募集して採用試験や面接で落とすことになる。こんな理不尽なことはない。男女を区別して求人募集したのは男女雇用均等に反し差別であるというのであれば個別に対応すべきであり、監視の目と苦情受付の窓口を用意すればいいことである。
このような施策がまかり通って、これで良しとして済まされたのでは、
本質的なことは何も解決していない。求人広告は強制的に「みんな同じ」になるが、採用の際は相変わらず男尊女卑(この言葉を使ってはいけないかな)、能力はあっても女と言うだけで雇用制限、採用した後も男性優遇女性冷遇、責任ある職務に女性がつけば無言の反発、などなど現実の環境が変わりそうな気配がない。
男女雇用機会均等法は、女性に有利な法律であるという認識ばかりが先行しているが、
男女平等を追求すれば労働条件も平等であり、女性として優遇されていた従来の権利は全て放棄することになる。雇用機会と賃金が平等になると同時に労働条件は逆に女性にとって厳しくなり、責任も重くなる。女性はこれにうち勝ち男性と対等になる努力をしなければならない。これがなければ、雇用機会均等法は片手落ちである。かといって、これまた男女の区別をしないで「有無も言わさず全く平等」とするのは無理がある。男女の特性に合わせて個別に労働条件を考えなければならないであろう。
働きたいという意志は個別にあるのであり、
「みんな同じ」の理論は通じない。個別の能力と意志を尊重し、この能力を発揮し意志を実現できる機会を平等にしなければならない。画一的なかつ一方的な強制では仏造って魂入れずに等しい。男女雇用機会均等法により、女性の職域が拡大し、男性と対等の立場で雇用の機会が得られることはすばらしいことである。将来的に労働人口が減少する傾向にあり、老若男女全ての者が雇用の機会を平等に得て、それぞれの特性に合った職業を選択し、可能な限り社会のために働けるような世の中が求められている。しかし、それぞれの特性を無視した画一的かつ統一的な施策は無用な混乱を生じるだけである。現実にあった施策を望むところである。
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