オクトシティー正直村

おかしいな?変だな?と思った事を綴った駄文

罪を憎んで人を憎まず

2019年06月10日 | Weblog
様々な犯罪や殺傷事件が発生している。

 これらの事件に対してメディアやネット上で様々な意見が飛び交っている。引き籠りの男性が殺傷事件を起こした事件で、「自分一人で死ねばいい」とのコメントにあちこちで賛否両論があるようだが、私はこれでもまだ生ぬるいと思う。「社会から抹殺すればいい」が最も過激な意見であり、世のため人のため害を及ぼすような人は厳罰に処して更生させるか、更生できない場合は抹殺するしかない。

犯した罪そのものを裁くのか、罪を犯した心情を裁くのか、

 基本的には両方であり、まずは犯した罪そのものを裁かなければならないのだろう。その後に罪を犯した心情を裁かなければならないと思う。それなのに犯した罪をさておいて、犯した心情を最初に持ち出すのには賛成できない。心情を裁く場合はその犯罪の原因が曖昧になってしまうし、裁くものが拡大し巨大化して問題提起だけに終わってしまう。当然、教訓と問題点は生まれるが、その時点での解決にはならない。

理想と現実はわかるが、

 理想である「人を憎まず」を追及されたのでは、現実の被害者は救われないし、現実の罪がかすんでしまう。現実の罪は罪として厳格に裁かなければならない。そして、問題は現実の罪を本当に裁いているのかである。現実の罪に至った原因と責任は犯罪者だけでなく周囲の者にもある。そこの解明が本当に明確になっているのだろうか?私はそうは思わない。ただの犯罪の事実を詳細にしているだけのような気がする。

その過程でメディアの憶測による報道が始まる。

 今回の場合は原因が「引き籠り」だと決めつけている。本当にそうなのだろうか?そうであれば、引き籠りをしている人は犯罪者予備軍になってしまう。だから引き籠りの人が世間から白い目で見られてしまう。そんなことはないだろう。普通の人が犯罪を犯したら普通の人が白い目で見られるわけではない。なぜ引き籠りの人だけが白い目で見られるのか冷静に考えればおかしいのがわかるだろう。

引き籠りにもその原因と事情は様々である。

 ただの「引き籠り」で一括りにして報道するからおかしなことになる。正常な「引き籠り」の人にとっては風評被害である。風評被害を生んでいるのはメディアである。犯罪の個々についてそれぞれの原因を見つけ出すのが重要なのだろう。その個々のものを積み上げていって具体的現実的な問題解決ができ犯罪の防止となり犯罪者を生み出す根源を無くしてゆくことができるのだろう。短絡的に「引き籠り」で片づけてしまっては具体的現実的な解決にはならない。

「自分一人で死ねばいい」も短絡的な結論である。

 結局は何の問題解決にもなっていない。犯罪者に対して感情的な心情を発露しているだけであり、しかも個人的な感情である。これがネットで拡散し、「自分一人で死ねばいい」の空気と雰囲気がネットで拡散している。このような現象を巻き起こしたのはメディアの報道である。そしてその現象をまた問題視した評論家の意見がメディアやネットで飛び回っている。いったい何なのだろうと思ってしまう。

家庭内暴力も虐待も各種のハラスメントも高齢者問題も政治・社会・経済の問題も各種の事件なども根は同じである。

 そして、その問題の対象となった一括りにされた集団に批判と中傷の矛先が向けられる。一括りにされた集団がすべて悪いわけではない。発生している事件は統計的に言ったらほんの一部であるはずである。その一部を取り出して誇張して偏向して脚色して大々的にメディアに取り上げれば全てが犯罪者の塊で身近にも犯罪が迫っている感覚を醸成してしまう。いわゆるこれが「風評被害」であろう。それを生んでいるのはメディアであることを再認識しなければならない

巨悪の根源があってこれが犯罪を生むという考えもあるが、

 巨悪の根源を絶つことは願望に過ぎないし、願望を語るだけでは具体的な行動はいつまでたってもできない。具体的な行動は個々の事件の詳細な原因を明らかにして分析し問題点を見出し具体的な対策に結び付けて行く努力を継続し積み上げてゆくしかない。引き籠りが問題であれば今回の引き籠りの原因を明らかにする次の段階に進まなければならないし。教育か社会か家庭か医療か制度かなどであろうが、決して「引き籠り」が悪いわけではない。

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