残念だったカーロス・エリオット唯一の世界戦

 今から30年前の日本時間の今日91年2月24日に行われたWBA:
Sウエルター級王座決定戦で、東洋太平洋王者で1位のカーロス・
エリオットが2位のジルベール・デュレと敵地で対戦し7RKO負け
でタイトル奪取に失敗した。

 距離を取りながら戦おうとしるエリオットに対しデュレが前進
しながらプレッシャーをかけ2Rにエリオットの左フックのカウン
ターがヒットしたものの、3Rにデュレの右がヒットするなどで2度
のダウンを奪われ一方的な展開に。

 結果的に7Rにデュレの右フックで泳がされたところに更に右を
2発ヒットされると崩れるようにダウンし、レフェリーがそのまま
ストップする形でTKO負けを喫した。

 敗れたエリオットは顎を骨折しただけでなく搬送された病院で、
一時は意識不明の重体になるなど甚大なダメージを追う形になっ
てしまい結果的にラストファイトになってしまった。

 エリオットはマーク堀越と共に今でいえばホルヘ・リナレスの
ような日本のジムからデビューした選手で、日本タイトル&東洋
太平洋タイトルを奪取するなど実績を積み上げて世界ランク1位
まで上げたのだ。

 ただ当時の世界王者は驚異的な強打を誇るジュリアン・ジャク
ソンだったが、ジャクソンがタイトルを返上し2位のデュレとの
決定戦となったのはラッキーだったものの、問題は開催地が本来
なら1位のエリオットのホームの日本で行われるはずが外国人ボク
サーという事からかデュレの地元での決定戦になってしまった。

 デュレはフランス人という事でフランス本土での試合ならばまだ
しも、会場はカリブ海のフランス領グアドループ。

 つまりデュレの出身地という事のようだが2月といえばエリオッ
トの所属する八戸は真冬の寒さなのに対し、常夏のグアドループ
での屋外試合ではコンディショニングからして絶対に不利。

 デュレは結果的に2度目の防衛戦で敗れているのを考えると仮に
後楽園ホールで開催されていれば、ここまでの惨敗はなかったかも
しれないし少なくとも引退に追い込まれるような事にならなかった
のではと思ったりする。

 それからエリオットと同じく日本デビューのホルヘ・リナレスが
世界を獲るのは07年にWBCフェザー級タイトルを取るまで、16年後
だった
わけである。

コメント ( 2 ) | Trackback ( 0 )
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コメント
 
 
 
Unknown (ochimo)
2021-02-26 09:44:31
エリオット懐かしいですね。
今のように世界ランカーと無冠戦ができる時代ではなかったので、東洋の選手相手に圧勝しながら世界1位のままなかなか世界戦ができず、やっと決まった頃にはちょっとピークを過ぎていたように感じました。
ちなみにあの頃は八戸帝拳の個性的な米兵ボクサーが沢山いましたね。
直人戦も私はマーク堀越を応援してました。
 
 
 
マーク堀越との二枚看板 (こーじ)
2021-02-26 22:42:41
>ochimo様

 いらっしゃいまで、初めまして。

 エリオットのスタイルは東洋圏では敵なしだったですけど、やはり輸入ボクサーの立場でしたから欧米の世界ランカー相手に戦う機会がなかったというのが痛かったです。

 せめてホルヘ・リナレスのようにアメリカで何試合か戦えればよかったですので、帝拳ジムだったらと思ったりします。

 ジュリアン・ジャクソンが台頭を返上してくれていたまではよかったのですけどね。
 
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