‘投手依存野球’ではレベルは上がらない  

 新型コロナで蟄居しているおり部屋の整理をしていたら、76年
選抜のスクラップが出て来た。

 残念ながら大会2日目と準々決勝以降はないのだがプレビュー記
事を貼っていたのでチェックしてみると今さらながら驚くのは、
参加‘30校中投手の防御率0点台の投手が僅か7人’と批判的に書かれ
ている事。

 つまり江川卓がいた73年は13人で74年は20人ほどいたのが7人に
減った’的な書き方で、特に74年は土浦日大の工藤一彦・銚子商の
土屋正勝・横浜の永川永殖の関東三羽烏が話題になっていたのを
思い出す。

 もっとも74年は打線の方は木製バット最後の年だった事からホー
ムランはランニングホームラン1本のみだっただけでなく1試合での
総得点が10点に届かなかったという超投高打低の大会だった。

 そういえば東京ドームにある野球体育博物館の図書コーナーで
73年夏の高校野球特集号を見ても‘完封試合が云々’と、完封試合

数で大会のレベルの高低を評価していた感が強かった。

 この記事を若手のお客さんに見せると‘防御率0点台が7人いれば
多いのでは?’と語っていたし、03年のサンデー毎日を見ると参加
34校中防御率0点台は東北・ダルビッシュ有と福井工大福井・藤井
宏海に横浜・成瀬の3人のみと更に減っている。

 これは金属バットの導入などで打撃レベルが進化した証にも拘わ
らず‘投手がだらしない’的な事を言う年配者達の考え方の基準という
ヤツだろう。

 つまり木製バット時代までは好投手がいれば優勝候補扱いされて
いた時代で、74年夏など資料によれば土浦日大が優勝した銚子商を
抑えて優勝候補筆頭に挙げられていたのは工藤の方が土屋より力量
が上という事しか考えられない。

 確かに‘野球は投手’ではあるものの1人の投手におんぶに抱っこと
いうのを通り越して完全な投手依存野球だったのが分かるし、当時
の国内野球レベルが低かった原因の1つではないだろうか。

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