‘雑草の男’小林弘の王座陥落から40年

 今から40年前の今日71年7月29日はWBA:Jライト級王者で6度防衛中
だった小林弘が青森で5位のアルフレッド・マルカノに10RでKO負けして7度
目の防衛に失敗した日である。

 試合は猛暑の中で行われ立ち上がりこそマルカノの攻勢を許したものの中盤
からペースを握った小林が危なげなく逃げ切ると思われていた中で9Rにロープ
ダウンを取ったものの終了間際にダウンを奪われると10Rに3度のダウンを
喫して‘まさか’の負けだった。

 雑草の男と呼ばれた小林弘は67年12月に沼田義明を12Rにクロスカウンター
でKOしタイトルを奪うと6度の防衛に成功したのだが、ノンタイトルでマンド・
ラモスやフェルナンド・カバネラに敗れ初防衛戦ではレネ・バリエントスと引き分け
るなど苦闘の連続。

 それでも4度目の防衛戦では強打者のカルロス・カネテに完勝、過去1度も
勝てなかったアルゼンチン人相手に日本人として世界戦で初めて勝ったのだ。

 5度目の防衛戦は3度目の防衛戦で辛勝したアントニオ・アマヤとの凄惨な
流血戦を制し、12月にはWBAフェザー級王者の西城正三との世界王者同士の
ノンタイトル戦で勝ち、この年の3月に7ヵ月後にWBC:Jライト級王者になるリカ
ルド・アルレドントに快勝していたので5位のマルカノという事もあり‘試合は面白
くないかもしれないけど負ける事はないだろう’という予想だっただけに意外な
王座転落だった。

 当時の日本にはWBAフライ級王者・大場政夫の他にフェザー級を西城正三と
柴田国明、Jライト級を小林弘と沼田義明という2人の王者が占めていたので5人
の世界王者がいたのだが、その中で最も安定感があったのが小林弘だろう。

 ところが その小林が まさかの敗戦でタイトルを失うと人気No1だった西城
正三も9月に最大の強敵であるアントニオ・ゴメスを1度は追い詰めたものの5Rで
KOされてタイトルを失うと10月には沼田義明が小林に完敗したリカルド・アルレ
ドントから10RでKOされて4ヶ月で3人の王者がいなくなるという事態になった。

 それから10年後の81年に13度防衛していた具志堅用高がペドロ・フローレスに
敗れると、上原康恒・大熊正二と3人いた王者が立て続けに敗れた。
 これを見ても安定感のある王者がタイトルを失うと悪い流れになって雪崩現象が
起きるという前例になった。

 タイトル陥落後、小林は目を傷めていたというのが判明したので そのまま引退
すると思いきや、3ヵ月後の10月にパナマに渡って世界王者になる前のロベルト・
デュランとグローブを交え前半健闘したものの後半力尽きてKO負けして引退。

一方 小林をKOした事で名前を売ったデュランは翌年の6月にWBAライト級王者の
ケン・ブキャナンに挑戦して13RでTKOして4階級制覇への第1歩を踏み出したの
だった。

 88年2月に尾崎富士雄がアトランティックシティでマーロン・スターリングに挑戦
した時に前座に出場していたデュランが小林を見つけて‘あなたのおかげで私は
世界に挑戦できた’と言ったという。

 戦う男同士の友情の素晴らしさを現すエピソードだが、最近の日本人ボクサーに
こういう選手がいないのは 何とも寂しい話だし、派手さはないものの小林弘の偉大
さを改めて感じるものである。

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コメント
 
 
 
本人曰く「運命の日」だった (吉法師)
2011-07-31 01:17:10
この所多忙ですっかりこちらにはご無沙汰してしまいました。

数年前、とあるボクシング好きの集いで、小林弘さんご本人を囲んでお話を伺う機会があり、私も参加していろいろとお話をお伺いしました。小林さん曰く、あのマルカノとの試合は、あの日、あの地で負ける、という運命だった、そうとしか思えなかった、との事でした。

夏の盛りの防衛戦、北国・青森ならば少しは涼しかろう、と考えて場所を選んだら、試合当日は当地では記録的な猛暑となり、会場の体育館には雪国ゆえに窓が少なく、控え室は蒸し風呂状態。直前まで調整に滞在した八甲田山麓・雲谷高原が涼しく快適だっただけにギャップが大きく「早く勝負を決めないと、自分の体力が持たない」と勝負に出たら、めったにスタンディングカウントなど取らない吉田勇作レフェリーが、グロッギー状態のマルカノからスタンディングカウントを取って(試合後、吉田レフェリーが「ごめん、カウント入れるのが早すぎた」と詫びを入れてきたそうです)、結果的に一息付かせる事になり、詰めに掛かってガードが甘くなった所に、逆転の右アッパーを喰ってしまった、あの後はもう夢の中でしたねえ。と語って下さいました。

そもそも、この試合元々は、小林さんの限界を感じ取っていた中村会長の意向としては、当時J・ライト級のホープとして注目されていた岩田健二選手との日本人対決を組み、たとえ負けても同国人に王座を譲りたかったらしいのですが、交渉がまとまらず、代役として挑戦者に選ばれたのが、アルフレッド・マルカノで、それも小林さんの防衛戦の相手では初めてランキング3位以下の選手だった、と言うあたりも、なにやら因縁めいて聞こえてきます。

最後のデュランとの試合は、新婚旅行の機会が無かった小林夫妻に対し、中村会長が二人で行って来い、とセコンドは現地で付けさせる契約で送り出したのだそうで「中南米で技術を磨いて、世界ランキングを手に入れたのだから、向こうにランキングを返しに行ったようなものですよ」とは小林さんの談。当地での歓迎振りはほとんど国賓待遇だったそうで、街中でも現地の人々から「コバヤチー!」と歓待され、世界チャンピオンって、これほどのステータスだったんだなあ、と改めて感慨深かったそうです。デュランもそのあたりは充分に感じ取っていたのでしょうね。

上記の内容は、この春に出版された小林さんの評伝「1967クロスカウンター(太田出版・菅淳一 著)」にも、詳しく書かれています。未読でしたら是非ご一読されることをお勧めします。
 
 
 
Unknown (屯田兵)
2011-07-31 02:14:38
世界チャンピオンって、これほどのステータスだったんだなあ、と改めて感慨深かったそうです。デュランもそのあたりは充分に感じ取っていたのでしょうね。

そうなんですよ 世界残念ながら獲れなかった矢尾板さんよりボンクラ兄弟や●●●司の方が上なんて納得いかないすよ●●なんて誰も知らないでしょマニアじゃないと
 
 
 
書き込み御礼&レス (こーじ)
2011-07-31 23:47:09
>吉法師様
 なるほど、そういう事情があったのですね。

 1967クロスカウンターは読んで見たいと思っていたのですけど、これで いよいよ読みたくなりましたよ。

 もう少しマスコミも小林弘の事を重要視して欲しいものです。 

>屯田兵様

 当時は本当に世界王者のステイタスが高かったというのが分かります。
 
 だから某兄弟など当時の東洋王者以下でしょう。
 
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