草むしりしながら

読書・料理・野菜つくりなど日々の想いをしたためます

草むしり作「わらじ猫」前6

2020-01-23 07:09:04 | 草むしり作「わらじ猫」
草むしり作「わらじ猫」前6

㈡吉田屋のおかみさん① 

 ジトジトと降り続いて、家に中だけではなく住んでいる人間までカビが生えてしまいそうな梅雨が明けた。とたんにジリジリとお天道様が照りつけ始めた。久しぶりの青空に長屋の戸は一斉に開け放たれ、風が湿気てかび臭くなった畳の上を吹きぬけた。昼前にはたまった洗濯物を干し上げて、家の中の掃除も終えたおっかさんたちだったが、昼すぎからの暑さに閉口し、早くも梅雨の曇り空を懐かしむ声が聞かれた。

江戸の町に夏がやってきた。

 七月七日の長屋の井戸替えは長屋の年中行事である。この日は大家を初め長屋の住人が仕事を休み、総出で井戸の大掃除をする。終わった後には大家が皆に酒を振舞い、大人も子どもも年に一度の井戸替えの行事を楽しんだ。

 楽しかった井戸替えが終わって、おなつも明日で九つになるという日の昼すぎだった。父親の甚六が普請場で足の骨を折る大怪我を負ってしまった。朝から容赦なく日が照りつけて焼けるようになった表通りを、板戸に乗せられて甚六は帰ってきた。幸い足の骨を折るだけで他には怪我はしていないが、しばらくは日雇いの大工仕事は無理だった。
 
 梅雨の間ほとんど仕事がなく、子沢山で蓄えも少なかった。米櫃の底はすぐに底をつき、家賃も滞るようになってきた。その上、骨接ぎに借金まで出来てしまった。

―昼間の間だけでも飯屋の下働きにでも出ようか。
 赤ん坊を背負って洗濯物を干していたお松が、そんなことを考えていた時だった。大家の徳次郎が徳次郎がやって来た。

「ごめんなさいよ、甚六さんの具合はどうだい。お松さん」
 大家の声を聞いたとたんに、タマがどこからか飛び出してきた。仰向けに寝ころがって腹を見せて、クネクネと背中を地面にこすりつけている。
「おや、タマじゃないかい。嬉しいね。お前だけだよ、わたしのことを歓迎してくれるのは」
 徳次郎はタマの腹を撫ぜながら、嬉しそうに話しかけている。

 タマを拾った当初は「柱で爪をとがれては困る、ウンやらシィをされると臭くてたまらない」などと文句を言い、あげくの果てに「猫を見るとしゃみが出る」などと、嫌味を言っていたのだが、この頃ではタマが可愛くて仕方がないようだ。もちろんタマが長屋の鼠を捕ることもあるのだが、それだけが理由ではなかった。
 
 長屋の店子たちは徳次郎がどうも苦手のようだった。大家の姿を見かけると、さも用事を思い出したような振りをして後戻りをする者や、そそくさと家の中に入ってしまうものが多い。それがタマだけだった、徳次郎の姿を見かけると飛び出してくるのは。

 徳次郎は悪い人ではないのだが、とにかく口うるさい。ごみの出し方からはばかりの使い方に至るまで、口を出さないことはない。しかもひと言いえばそれで済むことでも、ねちねちと人の神経を逆なでするような言い方をする。もっともなことを言っているのだが、言われた方はいい気がしない。だから大家を見かけると、店子たちは挨拶もそこそこにその場を立ち去って行くのだった。

 その上金にはめっぽう厳しい。仕事もしないで家賃など溜め込もうものなら、仕事に出るまで毎日押しかけて家賃の催促をする。大家が家に来るよりも、仕事に出たほうがましとばかりに、こられた家の亭主は働きに出るようになる。結果としてはそれがいいのだが。それだけに長屋の規律と金に対しては度がすぎて厳しい。おまけにあの顔だ。人にはそれぞれ生まれ持っての顔というやつがある。自分だって人のことをとやかくいえるほどの顔でも無いのは分かっているのだが……。
 
 徳次郎の場合は一言で言うと悪人顔だ。ひょろりとして人より頭一つ分背が高い、遠目には優男に見えないことも無いのだが。その人の頭ひとつ分上についている顔が問題だ。目は切れ長の二重まぶたで鼻筋は通ってはいるが、鼻の下がちょっと長めで薄い唇をしている。色が浅黒いせいか、唇の色が黒っぽい。どことなく冷酷なヤクザの親分か、手配書の回った盗賊の頭(かしら)のような風貌だ。

 本人はにっこりしたつもりでも、その笑顔に人々の背筋は凍りついてしまう。長屋の女房たちはこの頃やっと慣れたようだが、子どもたちは未だに徳次郎の姿を見かけると蜘蛛の子を散らしたみたいに一斉に逃げ出す始末だ。徳次郎は知らないのだ、子供たちが徳次郎の唇の色を怖がっていることを。

「すみません大家さん、うちの人が働きに出るまでもう少しお家賃待って貰えませんか」
お松はてっきり大家が、家賃の催促に来たのだと思ってしまった。子どもたちは大家が家に入ってくると、お松の後ろに隠れて小さくなってきる。
「いや今日はね、そんなことで来たのじゃ無いよ」
「子どもたちが何か悪さをいたしましたか」
お松は自分の後ろで小さくなっている子どもたちをちらりと見た。
「いや、そうじゃないよ。タマのことでね」
「タマが何かいたしましたか」
タマがいったい何をしたのだろうか。お松の声が一段と大きくなった。




コメントを投稿